当サイト掲示板における発言のガイドライン

TAKE@管理者
HPにて公開(2001年10月14日)
改造版の公開(2002年4月30日)
改造版の修正公開(2002年5月5日)
改造版とその修正は、nonちゃんの全面的なご協力を頂きました。

まえがき

 以下の文書は、日本基督教団出版局よりの依頼を受けて執筆したものです。季刊誌『アレテイア』が特集した「IT時代と人間」というテーマに沿ったもので、制限字数は8000字。「特にインターネット教会の試みについての報告がほしい」とのことだったので、自分の体験を踏まえてまとめました。2001年8月発行の『アレテイア』37号(¥1850 全国のキリスト教書店にて)に掲載されておりますが、編集部の許可を得ましたので、ここに転載します。『アレテイア』37号には、他にも別の執筆者による2本の論考が収録されており、比較して読むと面白いと思います。ぜひ買ってください。今更わたしのギャラが増えるわけじゃありませんけど(笑)。

 この文章で提起したのは、要するに「インターネット上に出没する対話不能の困ったちゃんたち」への批判です。このサイトに収録している『さようなら、小木さん』を執筆していた頃からの問題意識に加え、メーリングリストやインターネット掲示板で時々遭遇し論戦するハメになる「ある種の人々」に共通する傾向に着目し、本来「対話」とはどのようなコミュニケーションなのか、という点に焦点を当てて考察を進めました。驚いた事に、教会論や礼拝学などにも発展しうるテーマとなりまして、自分でも驚いています。執筆には2ヶ月ほどを要しましたが、書いてある事はここ2年にわたって考えさせられてきたことでした。そして、「対話」の回復ということが、わたし自身のライフワークになりそうな予感がしています。

 前々からぼんやりと感じてきたことではありますが、「困ったちゃん」を生み出すような構造的問題が、多くのキリスト教会に存在するということかもしれません。今日、「宗教」というものを毛嫌いする人が多いのは、様々な被害や迷惑を振り撒いている破壊的カルトの存在ばかりが原因ではないように思います。そして、非宗教の領域においても、ここに提示してあるような問題はかなり深刻なのではないでしょうか。「学校教育に、もっとディベートの訓練を取り入れよう」という意見に対しては、個人的にはただちに賛同するわけにはいかない諸問題を感じていますが、この文章に問題提起した「対話不能性の蔓延」という現象に対する危機意識の表れとしてなら、理解はできます。

 浪岡伝道所に遣わされて、今年で10年目になります。それは、わたしの牧師としての歩みが始まって10年目、ということでもあります。その10年間における様々な局面で出会ってきた人々を振り返り、「ああ、自分はあの時こういうことを言ってあげたかったんだな」と思い起こす契機ともなりました。

 なお、今回の転載にあたっては、やや特殊と思われるキリスト教用語の読みなどに関して若干の加筆を行いました。それから、専門性の高い用語の解説や、今になって思いついたことなどをまとめた「注」を文末にまとめてあります。これは『アレテイア』誌には掲載しなかったものです。あわせてお読みいただけたら幸いです。タイトルと小見出しは、『アレテイア』編集部で付けて下さったもので、元々わたしの原稿には存在しなかったものです。(←我ながら迷惑な執筆者だ)

 そして、この文章における「対話」(あるいは「議論」)の定義は、今後当サイトにおける各掲示板での発言のガイドラインとさせて頂きます。なに、堅苦しく考える必要は全くありません。要するに「対話」すればいいだけの話なんですから。ところが、そんな簡単なことが分からなくなっちゃってる人が多すぎる、というのが、悲しい現実なんですね。そういう「困ったちゃんたち」を批判する時には、この文章を根拠といたします。





メールが築くネットコミュニティー 
『アレテイア』No.34掲載
(日本基督教団出版局)


一、電子メール事始め

 電子メールを使い始めたのは、今から4年を遡った冬であった。学生YMCA(1)にて「メーリングリスト」と呼ばれる電子メールを使ったコミュニケーション(後述)が始まり、スタッフを務める連れ合いが「立場上、電子メールを始める必要がある」と言い始めた。その頃のわたしには、電子メールと聞いても「郵便局の新しいサービスのひとつ」という見当違いのイメージしか湧かなかったものだ(2)

 聞けば、手持ちの家庭用ゲーム機(3)に新たな部品を買い足せば電子メールが可能になるのだという。事情が飲み込めないまま、当時15,000円ほどで購入した部品を接続してみた。電話線をつなげば、機械が勝手に電話をかけて文字データをやりとりすることができる、と説明書を読んで理解した。しかし「電話料金の他にプロバイダへの接続料金がかかります」と何やら恐ろしげな文句が続いている。何が何だかわからないまま、画面に表示される指示に従って「プロバイダ」との契約に取り掛かる。契約と言っても、署名も捺印もない。キーボードで画面に必要事項を記入するのみだ(クレジットカードを使用する場合)。「どのくらい金がかかるのか」だけをしつこく確認しながら、契約を済ませた。

 その場で「電子メール」のアドレスとパスワードが支給されメールの送受信が可能となったが、やはり何の役に立つものかさっぱり見当がつかない。とりあえず、電子メールを使っている知人たちに電話をかけて「メールアドレスを取得した」と伝えたが、そんな用事なら電話の方が早い気がしてならなかった。(4)

 学生YMCAのメーリングリストを通じて、メンバーからのメールがぼちぼちと届くようになった。また、知人たちから雑談のような内容のメールも舞い込むようになってきた。その頃になって、ようやく電子メールの特性を飲み込むことができるようになった。つまり、電話と違ってリアルタイムに相手を拘束する事がないのである。文字が送受信されるという点ではファクスに似ていなくもないが、無粋な呼び出し音を鳴り立てる点においてはファクスも電話と変わりない。しかし電子メールの場合は、たとえこちらの発信が深夜であっても、それが相手の生活にむりやり割り込んでいくということがない。受信者は、自分の都合のいい時間にメールボックスにアクセスして受け取ればいいのである。確かに送信と受信にはタイムラグが生じる(受信者のアクセス頻度によっては、それが数日に及ぶ場合もある)が、牧師の他に幾つかの仕事を掛け持ちしていて生活が不規則なわたしには大変魅力的なメディアであることがわかった。

 だが、次第に不満も募ってきた。その不満は、このときわたしが使用していた家庭用ゲーム機の性能に起因するものであるが、受信できる文字数の限界の低さとワープロ機能のお粗末さに対してである(5)。比較的まとまった分量の論文が届いても、それが中途で切られて続きを読むことができない。また新語登録や変換頻度学習の機能がない機種だったため、作文時のストレスも高かった。今思えば、現在猛烈な勢いで普及を続けている携帯電話に搭載されたメール作成機能に毛が生えた程度の性能しか備えていなかったわけだ。また、せっかく作った文書を保存する機能が脆弱である事もストレス源であった。

 そうした不満を溜め始めた頃、それまで使っていたワープロにも「通信機能」が備わっている事を発見した。つまり、「通信」などというものに全く関心がなかったから気付かなかっただけで、電話線に接続する部品を購入すれば電子メールを送受信できる機能を備えたワープロだったのである(6)。これまた当時15,000円程度の「モデム」と呼ばれる機器を購入し、接続した(7)。これが使えるようになるまでの調整に3日間を要したが、その過程における悲喜劇は割愛する。

 その頃、業務上の必要に応じた文書は、すべてワープロを使用して作成していた。既にその頃のわたしは、ペンで書くよりもキーボードで入力する方が早くなっており、説教もすべてワープロで作成していた。そのワープロで電子メールの送受信を始めることによって、文書データの統合が可能になった。つまりそれまでは電子メールで送受信した文書は専用機器でしか見ることができなかったのだが、電子メールの文書もワープロでの加工や保存が可能になった(8)。受信できる字数も事実上制限がなくなり、もちろん慣れ親しんだ変換機能や学習機能の恩恵をそのまま受ける事ができる。説教であろうがエッセイであろうが、ワープロに入力した文書データも電子メールとして発信することができるようになったのである。


二、『通信説教』の反響

 試しに、一本の説教を学生YMCAのメーリングリストに投稿してみた。メーリングリストというのは、電子メールのアドレスを登録したメンバー全員に、同一の文書をリアルタイムに配信するシステムである。誰かが投稿したメールは、ほぼ同時に登録者全員に配信される。誰かの発信に誰かが応答するということが繰り返されれば、それは公開された場における「議論」と等しいものになる(9)。わたしが投稿した説教も、全国に散らばっている登録者のもとへ瞬時に配信された。驚いたのは、その説教に対する感想のコメントが、10分後にはわたしの元へ届けられ始めたことである(最初に届いたのは、名古屋に住むメンバーからの感想であった)。

 通常、説教に対するコメントを聞かされる機会はほとんどないと言ってよい。多くの場合は「礼拝」という場で「神の言葉」として語られ、また聞かれるのが説教だからである。礼拝に集う人は、よほど感動してくれた場合には好意的な言葉をかけてくれることもあるが、黙って聞かれる事の方が大部分であると思う。だから、説教の投稿直後に続々と、それも全国津々浦々からそれぞれの生活現場に即したコメントが寄せられるのは、かなり新鮮で衝撃的な体験であった。

 その後、継続的な投稿を要望する声が届けられ、『竹迫牧師の通信説教』として2年間に渡り電子メールによる説教配信の活動を続けた。今思えばネチケット(ネット上におけるエチケット)に反する形式である事も多かったように思うが、読者からの好意的な反応も断続的に届けられ、自分の説教がどのように受容されているのかをリサーチする事ができた。それだけでなく、『通信説教』読者の中から数名の受洗者が現れ、その中のひとりはわたし自身が洗礼式を執行した。この人物は遠隔地にありながらも、わたしが遣わされている浪岡伝道所の会員となり、現在に至っている。働き手の少ない地方小教会にとって、これは強力な支援ツールになる、と直感した。

 つまり、文書データを高速に送受信できるところに、電子メールの大きなメリットがある。それも、電子メールを送受信できる環境が整っていれば、世界のどこにいようとも、である。オリジナルのデータは手元に残るので、何らかの事故が生じた場合でも、何度でも再送する事ができる。ファクスで受信した文書を加工するにはワープロで打ち直す必要が生じるが、電子メールなら送られたデータをそのまま加工することができる。郵便なら到着まで相当な日数を要するが、電子メールの場合は多くの場合一瞬で送付する事が可能であり、しかも時差を始めとする相手の時間的な都合を一切気にする必要がない(その点、リアルタイムに届けられる事が多い携帯電話のメールは、こうした電子メールのメリットから後退した観が否めない。動作原理は同じでも、用途の点において電話やファクスの延長に位置付けるべきだろう)。『通信説教』の読者から寄せられるコメントに応答する中で、幾つものカウンセリング的な対話すら成立した。文書によるカウンセリングに関してはまだ体系的な研究がない(10)ようだが、そのやり取りが「対話」である限りは充分成立し得るものと信じる。

 無論、電子メールだけで人間関係の全てが事足りるわけではない。手紙や電話のやりとりだけで社会が動いていかないように、それは電子ネットワーク利用についても同じく言える事である。しかし、手紙や電話、近頃ではファクスが重要な連絡手段として教会でも用いられているのと同じく、電子ネットワーク利用も人間関係を構築する上で有効かつ強力な補助手段となり得るし、現になっているのである。ただ、手紙や電話にも特有の「作法」が必要であるのと同じに、電子ネットワークにも特有の「作法」が必要である。その「作法」にのっとる限り、教会もまた電子ネットワーク世界の隣人として受け入れられ得る。

 この『通信説教』読者の有志たちにより、1台のパソコンが贈与された(11)。またほぼ同時期に、友人の牧師が使わなくなったノートパソコンを貸与してくれた(12)。一挙に2台のパソコンが与えられたのだった。連れ合いと1台ずつ分け合って、電子メールのみならずインターネットをも利用する生活が始まった。パソコンとワープロ専用機では全く使い勝手が違い、電子メール以外の用途などに本格運用するまで数ヶ月を要したが、使い込むほどに事務機器としてのパソコンの性能の高さに舌を巻いた。当時のわたしは、浪岡伝道所の他に、40キロほど離れた八甲田伝道所を兼務しており、また東奥義塾高校において聖書科の非常勤講師としても働いていた。更に、学生YMCAのイベントに招かれる事も多くあり、とにかく複数の仕事の間を移動し続ける日々を送っていた。八甲田伝道所で礼拝前に高校の成績計算をしなければならなかったり、学生YMCAのイベント会場で週報を作成する羽目になったりと、同時進行していく殆どの仕事を抱えながらの綱渡りばかりだった。この辺りの事情は、八甲田伝道所を辞任したものの弘前学院聖愛高校の非常勤講師を兼務することになった現在でも、殆ど変化がない。大抵の事務仕事を単体で処理できるノートパソコンは、わたしの生活になくてはならないものになった。言うなれば、書斎を丸ごと抱えて歩くようなものだからである。

 やがて、試行錯誤しながらホームページを開設(13)し、その読者たちと電子メールを通じて交流する場面も多くなった。電子メールによる原稿依頼も増えており、事実本稿も編集部からの電子メールで依頼され、また同じく電子メールで届けたものである。講演会場へ移動する最中に原稿を準備する機会も増え、そしてその原稿はそのままホームページに公開することも多い。すると、その記事を読んだ読者から感想や批判が届けられる。未だに直接は会った事のない複数の人々と、かなり込み入った議論を幾つも継続している。実務的な議論ばかりでなく、全国のどこにいても、全国各地にいる「仲間たち」と繋がっていられる、という心強さを携える事ができる。そればかりか、全国のどこかで孤立して生きている人々との連帯の糸口を見出す契機をも提供してくれる。


三、「自己拡大」に傾くネット上の発言

 さて、そのホームページだが、当初は「浪岡伝道所の公式ページ」として準備したものの、ほどなくしてそれでは上手くいかないように感じて「竹迫牧師個人のページ」に運営方針を切り替えて現在に至っている。というのは、ホームページと電子メールの運用は、どうしても「個人対個人」というパーソナルな関係をベースにせざるを得ないコミュニケーションだからである。教会という「団体」が電子ネットワークに参与するのは難しいように思う(無論、不可能ではない)。それよりは、同じ教会に属するメンバーが個別に電子ネットワークに参与し、それらの働きの総体を「教会」という枠組みに位置付ける方が自然であるように感じる。思えば、教会というものは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエスが言われた交わりであった。「組織」は、その交わりの運用に有用な制度に過ぎなかったはずだ。個人の顔を前面に出さず、情報提供に徹する参与の仕方にも意義はあるが、しかし「教会」とは本来、神と人・人と人の交わりが重なる所に生じる集団であるはずだ。「交わり」というもののひとつの形である(14)からこそ、電子ネットワークへの参与にも特有の「作法」が求められるのである。

 ところが現実には、この「作法」に無頓着なキリスト者が多く目に付くのである。「作法」と言っても、それは直接に隣人と向き合う時のそれと本質的には変わらない。一口に「人間関係」と言われるものは、根源的に「対話する関係」のことであると考えるが、「作法」とは、隣人にこの自分を対話の相手として受け入れてもらうための約束事である。だが、メーリングリストやインターネット掲示板におけるキリスト者の発言には、「作法」どころか「対話する関係」そのものが念頭にないとしか思えないようなものがたくさんある(15)

 対話というものは「意味のキャッチボール」と言い換えられる。誰かが発信した「意味」を受け取って、それを踏まえてこちらから「意味」を投げ返す。それが相手に受け止められたところで、初めて対話が成立する。

 「今日はいい天気ですね」と言われて「昨年食べたステーキの味が忘れられません」と応答すれば、それは対話とは言えない。「本当にいい天気ですね」と応答しても、それが相手に「根性のいいペンキですね」(16)と伝われば、それもやはり対話とは言いがたい。

 また対話とは、キャッチボールの発展的継続を促すコミュニケーションのあり方でもある。「本当にいい天気ですね」と応えたところでやりとりが終れば、それは対話というより「挨拶」と呼ぶべき性質のものだろう。「こんな日は散歩に出たくなります」「いつもはどの辺りを歩いていますか」「まあ、自宅の周辺をうろつく程度ですがね」・・・。

 しかし、両者の価値観の一致を確認するだけのやり取りに終始するなら、やはり対話と言うには不十分である。「天気がいいと、気分がウキウキします」「本当ですね」「ウキウキした気分の時は、買い物もしたくなります」「わたしもそうです」「買い物なら、やっぱりデパートが一番ですね」「心の底からそう思います」・・・。そこにあるのは対話ではなく、情報発信者の価値観や意見表明が一方的に垂れ流されるだけの、即ち一方の「自己」が拡大されていく姿だけである。

 電子ネットワーク上におけるキリスト者の発言の無作法さは、こうした「自己」の拡大のみを志向するところから生じているように思われてならない。「イエスは救い主である」「神は愛である」という価値観をもって相手を説得するよう努める事が「宣教」であるが、無作法な相手の試みる説得に応じたがる人が多くいるようには思えない。ところが、自分の信念の有意義さを確信する者ほど、そうした無作法を犯しがちになる(17)。相手の都合にお構いなく、自分は熟知しているが相手もそうとは限らない専門用語を乱発し、それが受け入れられないと時には憎しみすら感じてしまう。自戒を込めつつ言えば、「出来の悪い説教のヒドさを自覚できない牧師の姿」と表現すれば理解の助けになるだろうか。説教というものに異論や反論を述べる機会が提供されない礼拝の様式自体が、他者との対話でなく「自己の拡大」に終始する「宣教」の増長を促しているようにすら思われる。そうした礼拝から派遣されるキリスト者たちは、他者との対話を試みているつもりで、実は自分の言い分にアーメンと応答してくれる存在を求めているだけで、それはつまり「自己の拡大」の努力に過ぎないのである。語る言葉が「神の愛」を指し示していても、それが相手に届かなければ「騒がしいどら、やかましいシンバル」(コリント一13:1)にとどまる。だが、我々が語る宣教の言葉は「受肉」(18)を目指すものであるはずだ。

 イエスは、「どれが一番大事な律法か」と問われて「神への愛」と「隣人への愛」の二つを同時に挙げている(マルコ12:28-31)。ヨハネの手紙においては、両者は一体のものとして切り離す事が不可能であり、とりわけ「隣人への愛」が存在しない所に「神への愛」もあり得ないことが強調されている(ヨハネ一4:20)。「愛」は、行動を伴う「奉仕」へと受肉されない限り完成されないが、では「隣人への愛」、つまり他者への奉仕とは、どのようにして実現されるべきか。

 わたしがひとつの手がかりとしているのは、サムエル記上巻における「サムエルの召命」に関する記述である。呼びかける神の声に、少年サムエルは「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております」と応答し(3:10)、彼の「神への奉仕」は、ここから始まった。「隣人への奉仕」もまた、「どうぞお話しください。僕は聞いております」という応答から道が備えられるのではないか。


四、他者との対話をめざして

 近年「若い人々への宣教の不振」という文脈で、「教会は若い人々に語る言葉を持っていない」という嘆きをたびたび耳にしている。しかし、事態は逆ではないのか。「語る言葉」を持たないのではなく、「聴く耳」を持っていないということではないのか。

 対話とは、「自己」とではなく「他者」との間に成立するものなのである。無論、「自己」との対話もあり得るし、必要な事でもある。しかしそれは、「自己」を「他者」化したところに起こるコミュニケーションの形であると言えるだろう。「自己」の「他者」化によって、自力で痛みを克服したり、課題を乗り越えたりする事が可能になる場合がある。言わば自分で自分を説得するわけだが、カウンセリングと呼ばれるコミュニケーションのあり方は、クライアントの「自己」を「他者」化するための援助であると言い換えられる(19)。しかし電子ネットワーク上では、「自己の拡大」を志向する言葉の方が目に付くし、その傾向に分布するキリスト者を多く見かけるのである。

 他者との対話とは、つまり自分を他者の説得対象として差し出す行為でもある。「わたしは曇り空の方が落ち着きます」「買い物ならスーパーで充分だと思います」という、「自己」と異なる価値観と出会うからこそ、「それは何故ですか?」「スーパーでは買えないものもありますが」と対話が発展的に継続するのである(20)。時には「なるほど、晴れていないからと言って落ち込む事もありませんね」と、相手に対する説得が実現する事もある。同時に「たまにはデパートもいいかもしれません」と自分の価値観が変容する事も起こり得る。対話とは、両者の価値観を変容させる可能性を絶えず含んでいる関係のあり方なのである。すなわち「教会からの派遣」とは「自分が説得されるかもしれない可能性へと乗り出す事」なのである。だからこそ我々には、契約の箱をかついでヨルダン川の激流に足を踏み入れた祭司たち(ヨシュア3:14-17)のような勇気が求められる(21)。そしてその祭司たちと同じく、我々の勇気の源泉は「信仰」にあるはずだ。

 浪岡伝道所は、西暦2000年度をもって開設50周年を迎えた。伝道所設立以前からの宣教の働きを含めれば、足掛け100年にわたる宣教の働きの結実としての現在がある。日本基督教団の教憲教規に見られる右肩上がりの教勢拡大をもって「成長」とする教会観からすれば、設立以来「伝道所」であり続けたこの教会は、一世紀にわたって「足踏み」を続けてきたことになる(22)。小規模教会であるがゆえに、牧師は兼務を要求され、また地域への宣教活動も不十分となる悪循環を余儀なくされてきた。しかし電子ネットワークの世界では、少数者の群れである事・またその一員である事が、全く肯定的な要因として機能し得る。電子ネットワークにおいて求められているのは、特定の価値観を流布する「勢力」ではなく、「対話する隣人」であるからだ。

 ただしこのことは、先にも述べた通り「電子ネットワークの世界に限って」のことではない。教会という集団が、世の人々の隣人となっているか、またなろうとしているか。そのことが、電子ネットワークの世界においても問われている、ということに過ぎないのだ(23)


【注】

(1)学生YMCAとは、大学キャンパスにおける学生の自主活動団体であって、全国各地に点在する教育団体のYMCAとは同一でない。とは言え、学生YMCAも「日本YMCA同盟」に加盟しているので、繋がりがないわけではない。っつーか、教育団体のYMCAの拠出する負担金が活動の財源にもなってたりして、思い切り関係が深いと言わなければならない。かつてわたしは、「日本YMCA同盟」から給料を頂く協力主事という仕事をしてたんである。牧師との「2足のワラジ」(正確には、高校の講師もしてたから「3足」)で、結構忙しかったぞ。 [もどる]

(2)このころはねぇ、「メーリングリスト」って聞いても、「郵便物の一覧表」だと思ってたんだよ。あはは。今でこそ、近隣の牧師から苦笑まじりに「IT博士」とか言われてる(なにしろ、Itaru Takesako だし)けど、まあ最初は「若さゆえの過ち」の連続さっ。[もどる]

(3)なにを隠そう、今は亡き「セガサターン」のことである。セガは、かなり早い頃からネット端末として使える家庭用ゲーム機というコンセプトを具体化しようとしていたのだ(ホントはそれ以前に「@ピピン」って機械がバンダイとアップルの提携で出てたけどね。こりゃもう、あっという間にすたれてしまった)。ライバル機だったプレイステーションに比較すると、画像処理性能こそ劣るものの、データ読み込みは早かったし、拡張性豊かなハードだったし、面白いゲームも多かった。まあそんなことよりは、おれさまはテロリストを射殺しまくるというガンシューティング体感ゲームの『バーチャコップ』に惚れこんで買っちゃったんだけどね。今はゾンビを殺しまくる『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド』を時々やってます。[もどる]

(4)このことは、後日「メールアドレスを電話で伝えるってうぷぷ〜」と知人にバカにされたものだった。きむたつ。お前だお前![もどる]

(5)いやはや、ヒドいものでした。特に、変換の学習機能がないってのが致命的で、しかも「こんな変換、誰もしねぇよ」とツッコミを入れたくなるほど妙な変換例が先にあって、日常でよく使う変換例は下の方にあるんだよね。毎回、どうでもいい雑談を入力するだけで死ぬほど変換キーを叩かなきゃいけなかった。その後、もう少しマシな変換エンジンを搭載したセガサターン用のワープロソフトが出て、プリンタ付きだった事もあり、発売日に購入した。ところが、それで作文した文書はメールソフトで読み込むことが出来ないという致命的な欠陥があった(T▽T) 3万円も払ったのにぃ。ショックのあまり、メーカーに電話かけて文句言っちゃったよ。だって、受信したメールのプリントアウトもできないんだから。今の携帯電話メールに感じる不都合と全く一緒です。まあ、同梱のプリンタが元来パソコン用のものだった(CANNON製)んで、それはかなり使い倒しましたけど。今は知人に譲りましたが、現在でも現役で活躍中だそうです。[もどる]

(6)東芝のRUPOでした。元はわたしの父が使ってたものを強奪したのです(^^;) で、父が持っていた通信ソフトも譲ってもらってたんですが、別途モデムを購入する必要があり、もちろん使用には電話代もかかるので、全く関心がなかった。箱の中にしまったっきり忘れてました。大掃除した時にそれを発見し、「こっ、これは・・・!」と(笑)。[もどる]

(7)当時最速の36.6kbps。でも、ワープロ本体の方が9.6kbpsにしか対応してなくて、当初は「高い買い物だった」と嘆いたものだった(だってそれしか売ってなかったんだもん)。でも、後にパソコンを導入してからは、ISDN回線を引くまで、ずーっと働いてくれたのだった。[もどる]

(8)経済学者の野口悠紀雄氏は、IT革命の利点は「膨大な情報を電子情報のままで連続的に処理できること」であるとしている。「途中で再入力のために人手が必要とされることもないし、ミスが入ることもない。そして、電子的形態であるために、編集や複製がきわめて簡単にできる。/しかし、携帯電話だけでは、このシステムに入ることができない・・・(中略)・・・インターネットに接続しても、情報を取り出せば、そこで行き詰まりである。それを処理してつぎの段階に送るということにはならないのだ。」として、携帯電話の普及とIT革命とは違うものだ、と述べている(『正確に間違う人、漠然と正しい人』 ダイヤモンド社)。携帯電話によるメールの送受信に対して常々抱いてきた違和感を、野口氏は明快に説明してくれた。セガサターンが、ネットワーク端末機としてあれだけの性能と可能性を備えながらもすたれてしまった(←まだこだわっている・・・)のは、野口氏が言うところの「電子情報を連続して処理するシステム」に入る事ができなかったからだ、と分析する事ができる。さて、携帯メールの未来は?[もどる]

(9)これは、メリットともデメリットともなり得る特性である。建設的な議論であれば、その恩恵は計り知れない。しかし往々にして「全国の人々が見守る中での誹謗中傷合戦」にもなってしまう。議論のルールづくり以上に「対話のセンス」が要求されるのだ。うまいケンカのやり方というのは、ケンカを始める前から「どうやってケンカを終らせるか」というプランを何通りか用意しておく事だろう。しかし大抵の場合は感情に任せて始まってしまうので、お互いに「もういやだよー」と思いながらも延々と泥沼化してしまう。これを書いている現在、最もホットなニュースはアメリカにおける同時多発テロに起因する「アフガニスタン攻撃」だが、正直言って「どうやって終らせるか」というプランがないとしか思えない。あれだけ「負け」の体験があるアメリカなのに、ちっとも失敗から学んでいない。それは「自分は負けたのではない」という合理化の積み重ねが招いた結果なのではないだろうか。[もどる]

(10)わたしの知る実例では、「横浜いのちの電話」がファクスによるカウンセリングの研究を始めている。電子メールによるコミュニケーションが爆発的に普及している現在、最も必要度の高い研究分野だと言えるのではないか。しかし、元来「面接」を重んじるカウンセリング研究の現場では、そもそも電話によるカウンセリングすらカウンセリングとして認めようとしない雰囲気を感じる。[もどる]

(11)これは、IBMのアプティバ(J-model)でした。有志の皆さんは、ほとんどが学生YMCAの関係者で、後にプリンタをプレゼントしてくれた日本YMCA同盟の職員もおられます。大感謝。ただこの時は、「TAKEはゲーム機で通信説教を作ってるらしい」というウワサが流れて、同情票的に「パソコン寄贈運動」が盛り上がったみたいです。いやー、それは誤解だったんだな。贈られたアプティバ、当初はトラブル続き(あの悪名高い「サウンド兼モデムカード」を装備していたから)で、それへの対処に始まってHDDの増設やCPUの換装などに至り、「パソコン」というものを理解するのに本当に役立ちました。現在は一部故障して稼動していませんが、何とか修理してまた使いたいと考えています。[もどる]

(12)これは、DELLの「LATITUDE」(わたしたちは「拉致くん」と呼び習わしていた(^^;))というノートパソコンで、2001年現在は高知県で牧師をしているBUBUさんが貸与してくれたものでした。これも大感謝(BUBUさんのホームページはここ)。なんと「5階から落としても壊れない」って、いつかの筆箱のCMみたいな宣伝をしてた機種だそうです。しかし、次第にキーボードが不調になり、外付けのキーボードを買って誤魔化してましたけど、他にも性能的な不都合が顕著になってきたので、とうとう現在の機種(IBMのThinkpad)に乗り換えたのでした。その後、「拉致くん」はBUBUさんに返還され、プリンタサーバとして使い倒されているそうです。実は、東芝RUPOにモデムを接続する時も、BUBUさんには大変お世話になったのでした。わたしのネット&パソコンライフの大先生です。[もどる]

(13)えー、さっぱり更新せず申し訳ありません(^^;) でも、なぜか毎週200〜300件のアクセスがあります。ありがとうございます。[もどる]

(14)キリスト教関係のホームページを巡回していて、この「交わり」ということが意識されているかどうかという点が、教会(に限ったことじゃないですけど)が電子ネットワークに参入できるかできないかの分かれ道になるように感じています。大抵は「電子ネットでのお付き合い」ではなくて、「生身の人間が教会に来てくれること」を期待するスケベ根性を捨て切れないんですね。だから、その辺の街角に看板を立てるのと大差ない「教会のページ」が続出する。高画質の「会堂の写真」なんて、誰も見ないって(笑) 牧師の礼拝説教を公開する場合も、公開する当人の決意と気合に比例した読まれ方はしないようです。土曜の夜に限って説教のページが極端に重くなるのは、どうやらネタに詰まった牧師たちが読者の大半であるらしいことを示唆します(爆笑) 「交わり」を重視するページは、様々な情報開示もさることながら、掲示板運用に力を入れている場合がほとんどですね。用語検索によってホームページを発見する場合が多いという現状を考えれば、よほど多様な話題を提供するかニーズに対してどんぴしゃな情報を提示するかでない限り、ネット上におけるキリスト教会の知名度と貢献度はアップしないものと思われます。そもそも、本文に提示したような「対話する隣人」を目指さない限り、「資料の蓄積と公開」以上の意味を見つけ出すのは困難です。「オピニオンリーダーとしてのクリスチャニティ」という線を、そろそろ狙っていくのが良さそうな気もしています。[もどる]

(15)「自分の主張だけ延々と繰り返し、都合の悪い指摘や反論は一切無視する」とか「自分のホームページの宣伝しかしない」とか、具体例には事欠かない。こういう手合いは別にキリスト者にばかりいるわけではないが、キリスト者にも相当数存在するという事実は動かない。[もどる]

(16)この辺はほとんどギャグとして書いたので、掲載時にはカットされるかも、と覚悟していた。でも、そのまんま載った。[もどる]

(17)実際の「困ったちゃん」たちには、こうした(ある意味で)「純粋な」人ばかりではない。キリスト教信仰を持つということを「ステイタス」として捉えているとしか考えられない場合もかなりある。「わたしは救われている」とか「わたしはクリスチャンです」とかを延々と自慢する手合いである。そういうことがやりたいんだったら、自分でホームページを作りなさい。もちろん、わたしは見ないから。そもそも、自分でサイトを構築して管理するという手間を惜しんでるくせに他人の掲示板で好き勝手を言う、というあたりからして、発想がお手軽すぎるのだ。メーリングリストでも、そういうヤツ一杯いるぞ。[もどる]

(18)「受肉」という言い方は、キリスト教界における専門用語です。ヨハネによる福音書1:14「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳聖書)という記述が元ですが、要するに、「神と等しい存在であったキリストが、肉体を持った人間になった。それがイエスだ」という考え方を「神(の言葉)の受肉」と言うのです。「物理的存在として実体化する」という説明が妥当ですかな。[もどる]

(19)このあたり、ほぼそのまんま「あおもり いのちの電話」の広報誌に使っちゃいました。何しろ同時進行だったもんで。[もどる]

(20)最近のハリウッド映画が面白くないのは、既に我々にとってお馴染みのものになっている「既存の価値観」をそのまんまなぞる作品が多いからではないか、と考えている。具体例を挙げると敵を作っちゃいそう(『タイタニック』のファンとか『アルマゲドン』のファンとか。・・・あ、言っちゃった!)なので、黙っておきます。これは、現実生活の中で既存の価値体系を脅かすような不安が蔓延してて、「新しい価値観との出会い」というむちゃくちゃエネルギーが必要な冒険を求める観客が減っているからではないか?と思う。で、現実逃避的に「既存の価値体系を肯定する映画」に人気が集まっちゃう。昔の作品がリバイバル制作されることが増えてるのも、たぶんそのせいだぞ。ホラー映画でさえもつまらなくなってて、淋しい限りである。[もどる]

(21)祭司たちがヨルダン川の激流に足を踏み入れると、神の力が働いて水がせき止められ渡河の道が開かれた、という奇跡物語。しかしその奇跡が起こるのは「激流に足を踏み入れ」た直後なのであって、先頭を歩いていた祭司は相当ビビってたはずだと思うぞ。[もどる]

(22)このあたりの規定、具体的に引用しようと思ったら、「教憲教規」の本が見当たらない。困ったなぁ。どこへやっちゃったんだろう。仕方ないので記憶を頼りに書きます(後日、正確な表記に改めます。それまでの間、ご指摘・ご批判は歓迎します)。「教憲教規」というのは、日本基督教団という組織の維持・運営のための約束事の体系を指す名称です。その中に、信徒数50名以上を擁し、単独で経済的に自立運営できる教会を「第一種教会」、信徒数20名以上を擁し、付属事業などの収益によって経済的に自立運営できる教会を「第二種教会」、その要件を満たさない教会を「伝道所」とする「教会種別」の規定が設けられています。これは、負担金の算出だとか宗教法人法上必要とされる措置だとかのための取り決めだと思いますが、その後信徒数の減少などにより要件を満たさなくなった教会の種別を「格下げ」する規定が存在しません。ということは、背後に「教会は大きくなって当たり前。なにしろ真理を宣べ伝える集団なんだから」という考え方があるのだろうと思います(他にも「脱会の規定がない」などの問題がありますが、背後にある価値観は同一だろうと思います。「真理によって救済されるんだから、脱会の必要はない」と考えている事は明らかです。でも、それじゃあ「信教の自由の侵害」と批判されても文句は言えないぞ)。そうした考え方からすれば、開設後50年を経て「伝道所」のままである浪岡教会は「伝道をサボってた」と見なされる事になりかねません。わたし個人のことを言えば、確かにサボりまくりですけど。[もどる]

(23)電子ネットワーク上でさえ「対話」できない人が、実生活で「対話」できるとは思えない。元々人の話を聞かない人は、電子メールででも人の話を聞かないし、元々自慢話ばっかりするヤツは、やっぱり掲示板でも自慢話しかできないものだ。[もどる]