連帯を目指して
求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 誰でも、求める者は受け、 探す者は見つけ、 門をたたく者には 開かれる。 マタイによる福音書 第7章 7-8 |
今回のカンボジア行きで一番の収穫とは何だったか?
なかなかまとめることが難しいが、敢えて語るなら
「連帯の可能性が示された」ということに尽きるのではないかと思っている。
水道を作るキャンプに参加してネパールに行って以来、
わたしの中には「現地の人々との連帯は可能か」という問いが、
ずっとくすぶってきたのだ。
「共に生きる」ということを謳い文句にしながら、
しかし現地の人々と生活を共にしたわけではない。
雨に濡れれば着替えの服を買い、
腹を下せばクスリを飲み、
ちょっとばかり苦しい目に遭っても
数ヶ月もすれば帰る国がある。
そして、苦しい日々も「他に得られない経験の思い出」として整理できる。
そのようなわたしが、「現地の人々と共に生きる」ということを語っても、
空しさしか残らないように思ってきたのだった。
今回のカンボジア行きにしても、わたしは
現地の人々と「共に」生きたわけではない。
彼らの背負った重い歴史を一瞬垣間見ただけ。
彼らと言葉を一瞬交わしただけ。
彼らの重荷を共に担うどころか、
自分が背負っている荷物の重さを確認するためのダシにしたのに等しい。
それでもわたしは「連帯」の可能性を掴んだように感じたのだ。
政府の地雷被害者保護施設にて記念撮影。 子ども達は、この施設に居住する被害者の 家族であると思われる。 |
全てのプログラムが終わった後、飛行機の出発時間まで LEE氏が働いていた 学校 に連れて行ってもらった。 写真が暗いが、写っているのは代表者の韓国人牧師のSuh。 この学校は、韓国の宣教団体が運営しており、 入学料・授業料は無料。 卒業資格はカンボジア政府認定のものとなる。 |
OSはWindows95。ハードは韓国製のものが殆どだった。 停電が多いので、バックアップ電源が装備されている。 クメール語対応のOSは存在せず、英語版を使用。 そのため、コンピューターの教育には英語教育が不可欠で、 英語を教える前には母国語であるクメール語の読み書きを 徹底する必要がある。 |
同じ学校内の、音楽教室。 ところが、現在は音楽担当の教師がいないのだという。 他にも、理髪師を養成する教室があった。 また、定期的に対HIV教室も無料で行なっている。 |
この学校で、韓国料理をご馳走になった。 職員は住み込みで働いている。 LEE氏(写真左)もここに住み込んで働いていた。 彼は来年から、またこの仕事に戻り、 この学校に関するホームページを作るのだという。 |
それは、何事にも非力な自分を弁護するための感覚だったのだろうか?
そうであるようにも思うし、それだけではないようにも考えている。
物理的に遠い距離を隔てているだけでなく、
背後の歴史も現在進行形の諸問題も全く異なるカンボジアだが、
それらの問題に取り組む人々の闘いと 同じ勝利を目指す闘いに乗り出すとき、
わたしたちは「連帯している」と考えても良いのではないだろうか。
同じ課題に取り組んでいる時ですら、
わたしたちは「連帯」を見失うことがあるのだから。
働きは別々であっても、重なる所がひとつもなかったとしても、
「同じ勝利を目指している」との確信を持ち得る時には、
「連帯」は可能ではないだろうか。
それは、片方の一方的な思い込みであってはならないし、
自己正当化のために語られてはならない言葉ではあるけれども。
思い込みで終わらないように。
自己正当化に陥らないように。
メンバーたちと最後の別れを惜しみながら、
わたしはそのことをずっと考えつづけていた。
このことをこそ、わたしは祈らなければならない。
そしてわたしは、帰ってきた。
ワークショップ最後のプログラムである閉会礼拝。 礼拝の中で歌いながら、 ボール状に丸めたヒモを投げあい、ネットを作った。 それは、我々の将来の連帯を象徴するネットだ。 |
ネットの中心には、キリストのからだを象徴するために パンが置かれた。 それぞれが体験したことの振り返りを語り合った後、 互いにそのパンを食べさせあった。 それぞれの国の言葉で祈りつつ。 |
《帰国直後のメール》
TAKEこと竹迫 之です。無事、帰国しました。
帰途の経由地であったバンコクの空港で荷物が行方不明になるというアクシデン
トがあり、いくつかのお土産と現地で入手した資料の大部分を紛失しました。今
もなお探してもらっていますが、現在は連絡待ちというところです。
その他は、いたって元気であります。
今回の旅行の詳しい報告は、幸い手荷物に入れていて紛失を免れたデジタルカメ
ラの写真データ・ノートのメモ・プノンペンで出会った人々から頂いた名刺など
により、かなりの部分を補うことができると思います。それらについては、いず
れホームページに掲載させていただきます。
とりあえずひとつだけ、重要な部分を報告しておきます。
今回わたしたち(WSCF〔AP〕に加盟する各SCM代表者)が見たのは、現
在までその影響を強く残す「暴力の歴史」であり、また貧困によってあちこちが
分断されているカンボジアの人々の姿でありました。
わたしはかつて破壊的カルトのメンバーであり、その影響を現在でもひきずりな
がら牧師をしていますが、扱う課題や自分自身が抱える問題の大きさに対して自
分の持っている能力の低さ・築こうと躍起になっている諸成果の小ささに投げや
りな気分を抱えつつありました。ですから、今回カンボジアにおいて目撃した
諸事実によって、より一層の無力感を強く抱く結果となりました。
しかしそれは、出発前から予測していた結果ではありました。にもかかわらず、
今回のカンボジア行きを決断したのは、そうした巨大な課題に立ち向かおうとす
る人々が存在することを知らされていたからです。わたしは、そうした人々の勇
気と希望に学びたい、と願っており、それはかなりの部分達成できたという手ご
たえがあります。
それにもまして、わたしにはひとつの有力な確信が与えられました。
わたしが(なりゆきで)取り組むことになったわたし自身の戦いの目指すものは、
突き詰めて言うならば「暴力と貧困への抵抗」に他ならない、ということであり、
またわたしたちに要求されている働きも、同じく「暴力と貧困への抵抗」となる
よう招かれ求められている、ということです。
カンボジアにおいて展開されている対人地雷への対策やクメール=ルージュによる
犯罪の後始末は、不断に努力されなければならない「暴力」への抵抗ですし、地
雷被害者やストリート=チルドレンやセックス=ワーカーたちへの支援の取り組み
は、最も緊急度の高い「貧困」への抵抗です。それらカンボジアの抱える諸問題
への取り組みに、物理的な支援や事実としての協力が、早急に必要であることは
言うまでもありません。わたしはそれを、日本でも運動化する方法がないか、ま
た現に取り組んでおられる人々の働きにどうやって連帯するか、を考え始めてい
ます。
ですが、テロや犯罪ばかりが「暴力」ではなく、経済的欠乏だけが「貧困」では
ありません。貧富の差は、既に「暴力」であり、暴力を可能とする社会は、やは
り「貧困」と言うべきです。積み上げられた夥しい数の人骨やストリート
=チル
ドレンたちの眼差しが無言のうちに証言する「暴力と貧困」は、わたしたちの日
本における身近な生活においても溢れかえっています。「カンボジアが緊急・重
大」なのではなく、「わたしたちの世界全体が緊急・重大」なことになっている
のです。わたしはかえってそのことを、剥き出しにされたカンボジアの「暴力と
貧困」の現実から示されたように感じています。
わたしたちが関わっている諸運動の目標を「暴力と貧困への抵抗」として明確化
する時、仮にそれが直接カンボジアの現実に立ち向かう援助に結びつかないまま
だしても、わたしたちはより深い次元でカンボジアの人々と連帯することが可能
になるでしょう。わたしたちがカンボジアの現実に対してどんなに無力であって
も、また日本におけるわたしたちの働きがどんなに小さなものであっても、わた
したちの働きが「暴力と貧困への抵抗」である限り、それはカンボジアの人々と
の連帯であり得るでしょう。そして、その連帯は、わたしたちとカンボジアの人
々との関係だけにとどまることはないでしょう。
注意しなければならないのは、こうした理解が、わたしたちの慰めと勇気の源に
なり得るのと同時に、カンボジアの現状を肯定する(もしくは黙認する)勢力に
荷担してしまう危険も孕んでいる点です。それを避けるためにも、わたしはカン
ボジアに対する具体的な関わりを急いで組織化するべきであろう、と考えていま
す。そしてより一層、これまでわたしたちが取り組んできた・そして今すぐ取り
組むべき諸課題への対処を加速させる必要がある、と考えます。
より簡潔に言えば、わたしたち自身が誰一人の例外なく「暴力と貧困への抵抗」
に立ちあがる必要がある、ということです。
働きの場は、わたしたちの身近な所に、ほぼ無限大に広がっています。
今回の旅行のために、直接・間接の励ましを下さった全ての方々に感謝します。
また、直接にカンパを下さった5人の方々、そしてわたしの不在をカバーする
ために働いてくださった皆さんに感謝します。追って、それぞれ個別の方々に
お礼申し上げますが、今はこの場をお借りします。
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主よ、わたしたちの働きが、あなたの御心にかなうものとして用いられますよう
に、恵みと導きを豊かにお与え下さい。また、示された道に踏み出して行く勇気
が与えられますように。
「最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と
教えてくださった審き主、イエスの名によって祈ります。
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1999年10月26日
【注】
行方不明だった荷物は、後に1週間遅れで帰国した。
中身は全部無事だった。
殆どのメンバーが帰途についた後、 割り当てられた自室にて。 |