TAKE牧師のプロフィール


 浪岡伝道所の本当の主人であるMAY(手前)。背後にはMAYに飼われている竹迫牧師の姿が見える。「寒いわ。暖めて頂戴」と命じられてのスナップ。
 この写真は1995年ころのもの。竹迫牧師の髪の毛も、まだ短い。
 1998年7月に浪岡伝道所を会場に開催された、メーリングリスト「CASTANET」のオフラインミーティング。実際には学生YMCAメンバーの交流会に近く、総勢10名の参加者中、メーリングリストのメンバーは4名であった。「次を企画しよう!」との合言葉を希望に、明日に向かって歩むものである。
 左から、高徳宗和氏、岸本帰一氏、佐々木光春氏、謎の人物、竹佐古真希氏、長倉 望氏。盛会を極めたバーベキューの一コマ。

  竹迫牧師の歩み

1967年
2月16日
 秋田県秋田市にて誕生。「その名をイエスと名づけなさい」と主張する本人の意見は無視され、之(いたる)と命名された。が、「足」が簡略化されて派生したのが「之」の字であり、「生涯旅人」が早くも啓示されていたことになる(両親は、同名の地元市会議員にあやかっての発案であると主張しているが、独自の調査で照れ隠しであると判明)。
1975年
7月
 埼玉県狭山市に転居。東京が近いこともあり、テレビで毎週のように報じられていた東京タワーが怪獣に破壊される瞬間をライブで目撃できるものと期待していたが、何度破壊されても瞬時に復活するのが東京タワーであることを知ったのは、迂闊にも『宇宙戦艦ヤマト』の放映以降のことであった。
1976年  左目を負傷し、水晶体摘出手術を施術。その費用は最高機密に属していたが、実際には600万ドルであったことがテレビで公開されていた。ついでに右手と両足の改造も希望していたが、当時そうした技術を備えていたのはペンタゴンとショッカーのみだったので断念。だが、どうやら電波受信機は埋め込まれている模様である。
1978年  映画『スター・ウォーズ』公開。ジェダイの騎士となる事が使命であると直感したが、どうしてもライト・サーベルが入手できず断念。そこで、とりあえず似たような映画を作ることが早道と洞察して映画監督を志望。原稿用紙100枚を越える合体ロボット小説を執筆したが、時代そのものが作品の価値を正当に評価できないほど未熟であった。
1979年  アニメ『機動戦士ガンダム』放映。映画『2001年宇宙の旅』再上映。自分がニュータイプもしくはスターチャイルドである自覚を深めたが、モビルスーツもHALコンピュータも実用化には遠い時代であった。そこでやむなく「宇宙時代を生きる人間の実用思想」を構築するべく、D=カーネギーや多胡 輝の著作に没頭した。
1980年  ドラマ『ウルトラマン80』放映。中学校に進学したが、ウルトラマンさえ教師に採用する文部省への不信感を募らせ、絵画部(後に「美術部」に改称)の活動に没頭した。集団でなければ戦えないヒーロー像の蔓延に辟易し月光仮面を師と仰いだが、本人からの連絡は現在(2002年)に至るまでない。
1982年  ドラマ『宇宙刑事ギャバン』放映。地元中堅高校に進学したが、本来の進路はバード星に本部を置く宇宙警察機構であることを痛感し、やむなく生徒会長とマンガ研究同好会会長を兼任した。エアガンと出会って平和維持活動に目覚め、吹奏楽部に所属してライフル銃をチューバに偽装したのもこの頃である。
1985年  世界基督教統一神霊協会(通称「統一協会」)メンバーとなる。高校を卒業して天地万物の平和回復に邁進するべく受験勉強に没頭。同時に、第3次世界大戦に備えて軍事訓練を欠かさなかった。表面的には早稲田予備校に在籍していたが、実態は統一協会の偽装団体であるILA(池袋ライフアカデミー)のメンバーであった。
1986年  日本大学芸術学部写真学科へ表面上の入学を果たす。前年度の伝道活動実績が評価されハンカチ販売キャラバン隊に転属となり、主に北海道で活躍した。が、不慮の事故により左足を骨折したのを機に、日本基督教団S牧師のカウンセリングを受け統一協会を脱会。以降、仮面ライダー1号(本郷猛)やテレビ版『デビルマン』の苦悩を理解。
1987年
12月
 日本基督教団 所沢みくに伝道所にて受洗。世界が既にファシズムに冒されている実態に衝撃を受け、「マインドコントロール」の解明と対策に協力を開始。牧師養成機関であることを知らずに東北学院大学基督教学科への編入を希望し、その準備として日本大学中退を決意(翌年実行)。
1989年  NCC(日本キリスト教協議会)主催のネパールワークキャンプに参加。現地赤十字の水道設置活動に協力した。600万ドルの男・ジェダイの騎士・ニュータイプ・スターチャイルド・宇宙刑事のどれでもない自分の姿を発見する。東北学院大学に編入し、山田有信氏とウルトラセブンに盛り上がったが、モロボシ・ダンは既に地球を去っていた。
1991年  東北学院大学卒業。ハードボイルド小説『生煮えの拳銃』を執筆。以降、1年に1人の割合でファンがつくようになる。不思議な電波に導かれ青森県弘前市にて伝道実習を敢行し、結果浪岡伝道所との運命的な出会いが訪れた。後輩に物質的援助を仰ぐほど経済的困窮が甚だしく、日本YMCA同盟学生部協力主事を月6万円で請け負った。
1992年  日本基督教団 浪岡伝道所の招聘を受け、主任担任教師に就任(東奥義塾講師を兼任)。先行して実施された教団教師検定試験にて劣悪な成績を収めるも追加レポート2本で手打ちとなったのは、同伝道所メンバーの祈りの賜物である。また、同検定試験に先行して佐藤(現 竹佐古)真希と婚姻。
1993年  日本基督教団 八甲田伝道所の招聘を受け、兼務牧師として就任。日本農業における構造的搾取の実態に愕然とし、工業化社会の落とし子としての時代的責任を痛感させられる。以降、高校講師・学Y協力主事との「4足ワラジ」生活に邁進し、大いに呻吟する。乗用車による走行距離は年間3万キロを突破し、ついに腰を痛めるに至って、学Y協力主事辞任を決意。
1997年  日本YMCA大会聖日礼拝説教奉仕を担当し好評を博し、「時代の子」としての福音理解に自信を深めることになる。電子メールおよびパーソナルコンピュータの積極的運用に活路を見出し、『竹迫牧師の通信説教』活動が本格化した。また、八甲田伝道所会堂建築および農村センター計画に従事。同伝道所への専任牧師招聘の必要性を痛感し、ロン毛になる。
1998年  横山由利亜姉に対し洗礼式を執行。通信牧会の本格運用に乗り出す。社会福祉法人「花」が発足し、「浪岡伝道所に社会福祉施設を」の野望を胸に理事会に名を連ねる。八甲田伝道所兼務牧師を辞任(八甲田伝道所には江戸 清牧師を専任として招聘)し、東奥義塾高校講師の時間枠を拡大。『キリスト教入門記』(仮題)の執筆を開始。
1999年  「恐怖の大王」を待ちつづけたが、ふられた。Y2K問題に期待をつなぐ。
2000年  Y2K問題にもふられた。『ヨハネの黙示録』をマジメに読もうと決意する。弘前学院聖愛高校聖書科非常勤講師を引き受けるが、なぜか授業よりも放課後に行った小論文教室が人気を集める。「メディア=リテラシー」の一環として『帰ってきたウルトラマン』を授業中に上映したところ、聖書を読む生徒が激増した。しかし、「文化の集い」後夜祭のカラオケで『アニメタル』を絶唱したところ、一斉に引かれた・・・。音楽ホール「アドヴェントヒルズ」において聖研ライブ「聖書も休み休み読め!」を開始。
2001年  21世紀になったが、モノリスは未発見。「キューブリックのばかやろぉ!」と叫んだらご本人が召天されたので、以後は呪いの言葉を自分に禁じる。『アレテイア』誌に「メールが築くネットコミュニティー」を発表したところ、Itaru Takesako の頭文字から「IT牧師」と後ろ指をさされ、『礼拝と音楽』誌に説教を連載する羽目になる。9月11日深夜『マーキュリー・ライジング』の鑑賞直後に同時多発テロ事件を目撃し、非暴力抵抗主義者になる決意のもとに「癒し系バイオレンス牧師」を自称し始める。
2002年  いただきものの「赤いプレリュード」がトレードマークになったついでに、革ジャンと革パンツに変身する。その勢いで、浪岡伝道所・東奥義塾・聖愛高校・社会福祉法人「花」を一斉に辞任し、日本基督教団 白河教会主任担任教師に就任。しかし、1年間は給料泥棒に徹する(予定)。



現在に之。
おーっと間違い、
至る。


竹迫牧師の近況
『竹迫牧師のキリスト教入門記』(仮)
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