カンボジアに行ってきた。

 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」                                        出エジプト記 第4章 10‐12

 わたしは牧師である。
 日本におけるわたしの働きは、大きくコトバに依存している。
 対話する時も、論争する時も、相談事に耳を傾けるのも、全部コトバの力により頼んでいる。
 相手の発する言葉の細部を読み取り、イントネーションの変化に込められたニュアンスの
 微妙な違いを聞き分け、その人の心理の動きを想像力によって探りながら向き合うのである。

 それはまるで、顕微鏡を使って微生物相手にチェスをプレイするような作業だ。

 カンボジアに行ってきた。対話の手段は英語であった。
 わたしは、コトバを操る能力の大半を失ったように感じていた。
 ディテールがわからない。微細な変化が読み取れない。相手の心理を探ることができない。

 敵に対峙した兵士が、弾薬が切れていることに気付いた瞬間を想像して欲しい。
 わたしは、そんな気分でカンボジアでの1週間を過ごした。

 イエスは、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と語った(マタイ5:15)。
 暗闇のただなかに立って世に光を照らすことがキリスト者としての使命であり、
 そのキリスト者の群れを率いる役目を負っているのが牧師だ、と
 わたしは常々考えてきた。

 だが、コトバという武器を持たないわたしに、その使命を果たすことは不可能だと思われた。
 わたしはまるで、火が消えてしまったばかりでなく、ボキボキに折れ曲がったローソクのような、
 「闇を照らす」という使命を果たすには全く不適当な存在でしかなかった。

 しかし、と考えた。
 日本にいた頃のわたしは、いったいどれだけそのような力を持っていたのだろうか?
 むしろ、言葉巧みに相手を支配して悦に入っていただけのことではなかったのだろうか?
 空虚なコトバを並べて相手を煙に巻き、自分の力強さを自分自身にさえ印象付けて、
 面白おかしく生きてきただけのことではなかったのだろうか?

 カンボジアで過ごす大部分の時間、
 胸のポケットに差し込んで折れ曲がって行くローソクを取り出して眺めながら、
 わたしはそんなことをウロウロと考えつづけていたのだった。

 日本に向けて出発する日の朝に、
宿泊していた「香港ホテル」の食堂にて撮影。
 朝食で頼んだコーヒー
(どこのコーヒーも、何やらココナツ臭い香りがした)、
 毎食サーヴィスで付くお茶のカップ。
 会話の必需品だった英和/和英のポケット辞書と、
 ある場所での礼拝に使用したローソク。
このローソクは、ずっとヴェストのポケットに入れていたため
ボキボキに折れ曲がってしまっていた。

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