カンボジアで出会った人々

その1 

 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
                                   士師記7:2

 「カンボジアに行きませんか?」と問い掛けられた時、わたしは少しの間返事ができなかった。

 今回のカンボジア行きは、日本YMCA同盟から持ち込まれた話だった。
 WSCF(世界学生キリスト者連盟)への加盟団体として新しく発足した
 カンボジアSCM(学生キリスト者運動)との連帯を確認するため、WSCFに
 加盟するアジア・パシフィックの学生キリスト者運動の代表者が集う
 ワークショップが企画されたのだ。
 数年前に学生YMCAのスタッフをしていただけの、現在は学生でもなければ
 スタッフでもないわたしに、なぜか声がかけられたのだった。

 以前にも、NCCという団体が主催する「ネパール・ワークキャンプ」に参加したことがある。
 これは、大学生を中心メンバーとして(これに参加した当時のわたしは「浪人」で、
 「大学生」ではなかった)、日本国内で募金したお金を持っていき、水道のない地域に
 手作業で水道を設置するという、かなりハードなキャンプだった。

 ハードではあっても、キャンプそのものはとても楽しかったし、得たものも多かった。
 だが、わたしは日本に帰ってきてから、その体験の位置付けについて
 とても悩んでしまったのだ。
 ネパールでの体験は、飽くまでも「ネパールにおけるわたしの体験」に過ぎず、
 「ネパールでこんなことを体験しました」と報告しても、
 「あ、そう。それは良かったね」で収斂してしまうことがとても多かった。
 その体験に、日本における若い人々の行き詰まりを打開するための
 大切なヒントがたくさん含まれていることは直感しているのに、
 それを言葉化する困難を感じていたのだ。

 また、日本人の若者に特有の問題を、なぜネパール体験から語らなければならないのか、
 という点も、自分の中では消化しきれていなかった。
 まるで、手におえなくなった核廃棄物を
 遠い海まで出かけていって棄てることと一緒ではないか、と感じていたからである。

 自分の問題を考えるのに、ネパールの人々をダシにしているだけではないのか。
 しかも他人の金をつかって。

 そう考えながらも、学生YMCAのスタッフをしている時には、同じシステムで行なわれる
 「インド・スタディキャンプ」を積極的に推進し、また学生たちを送り出してきた。
 やはり、自分にとってネパール体験はとても大きなものだったし、
 自分が感じているモヤモヤを共有する仲間が欲しい、と願っていたからでもあった。

 そうやって、「アジア体験」を語り合う仲間が増えてきても、
 ずっと自分の中には同じ問いがグルグルと回りつづけていた。
 「かえって問題を拡大しているのではないか」とも思い始めていた。

 だから、カンボジア行きの話をもらった時、仕事との兼ね合いを考えて躊躇しながら、
 しかし心のどこかでは、既に行くことを決めていたように思うのだ。


宿泊した「香港ホテル」ロビーにて撮影。
今回のワークショップに出席したメンバーの一部。
中央の青年 DYNA が、ほとんどのアレンジを担当した。
カンボジアSCMからは、他にも数人の男子学生が出席した。
女性メンバーは、ここに写っている MARA と LYDA の他に
もうひとり(名前を聞き取ることは出来なかった)がいた。
カンボジアの女子大生は、卒業前に結婚して
中退してしまうことも多いのだという。

最終夜の打ち上げ会場であるダンスホールにて撮影。
台湾・香港・タイ・シンガポール・ニュージーランド・ビルマからの
参加者たちと、カンボジアSCMのメンバーおよびサポートする牧師。
カンボジア人学生のMAO(右から3人目)は、
エクスポージャー(現地視察)の際にガイド役を果たしてくれた。

 今回のワークショップの会場になった「香港ホテル」に着いたとき、
 他の参加者たちはWSCFの歴史をまとめたビデオによる学習の最中だった。
 戦争との関連、 マルキシズム運動との関連、学生運動としてのSCMの歴史などが、
 実録映像やインタビューと絡めて綴られていた。

 その後、短く自己紹介をさせられてから、
 ただちにカンボジアの現在の政治状況やキリスト教会の働きについての学習となった。
 2人の講師によって30分ずつのインプットが行なわれた。
 まだ英語のやりとりの勘を取り戻せていなかったわたしには、
 その1時間は殆ど拷問だった。
 
 辛うじて聞き取れたり、後で質問して聞かせてもらったことなどをまとめると、
 カンボジア政府が目下のところ取り組んでいるのは経済成長についてであり、
 カンボジアに在住する中国人やベトナム人などのマイノリティに対する政策なのだという。
 また、AIDSが猛威を奮っており、その対策も大きな課題とされているようだ。

 後で聞いたところによれば、
 国連の暫定統治機構(UNTAC)が駐留していた際に売春業が爆発的に増えたことが、
 現在のAIDS禍の引きがねになったのだそうである。

 元々は仏教国であるカンボジアだが、現在3000人ほどのクリスチャンがいるようだ。
 ポル・ポト政権下で秘密に礼拝を行なってきた人々が生き延びた結果だ、という。
 もし警官に発見されたら深刻な罰を受けるところを、
 「家の教会」として隠れてきたのだった。

 その他にも、幾つもの重要な情報が語られたと思うが、
 旅の疲れと、辞書を片手に追いかける慣れない英会話に翻弄されるばかりで、
 何が何だかさっぱり理解することができなかった。
 居眠りに落ち込まないように集中力を保っていられたことが不思議なくらいだ。
 
 さて、そうしたインプットの後で質疑が行なわれたのだが、
 ある1人の参加者が
 「マイノリティ対策の中で、同性愛者たちはどのように位置付けられているのか」と
 質問した。
 そこから、早口の英語による議論が始まったので、
 わたしには全く理解できなくなった。
 だが、その場の雰囲気に非常に険悪なものを感じたので、
 休憩時間になってから他の参加者たちに
 片端から「何が話し合われたのか」をインタビューしたのだ。
 
 先の質問に対して返ってきたのは
 「わたしの知り合いに同性愛者はいない。
 カンボジアの伝統は同性愛者を許さない。
 キリスト教においても同性愛は罪だとされている」
 という答えであったのだそうだ。
 
 つまり、カンボジアにおいて人権問題に取り組んでいる人々の間で、
 性的少数者の課題は「人権問題」とは受け取られていないという実情がある、
 ということだ。

 また、別の講師は
 「カンボジアの教会において、人権問題はどのように取り組まれているのか」との質問を受けて、
 「人権問題は政府の仕事だ」と言いきったようだ。
 「ただ、自分が所属する教会の信徒の中に、4家族ほど家庭内暴力に悩む人々がおり、
 その問題には教会が介入している」とのことだった。

 これがカンボジアにおけるキリスト教会の一般的状況なのかどうかはわからない。
 だが、わたしたちに協力してくれた教会の牧師たちには、
 間違いなく、「福音」と「人権」の二元化が起こっている。

 わたしは情けないことに、このあたりの経緯も、
 講師たちが帰ってからの休憩時間になって、
 ようやく理解できたのだった。

 ジェンダー=バランスについての議論が起こったときも、「ジェンダー=バランス」を
 「マン=バランス」と言い間違えたり(このあたりのやりとりは、わたしにもリアルタイムで理解できた)、
 発言するのはいつも男性だったり、という現象が観察された。
 
 議論が核心に迫るたびに
 「カンボジアの伝統はこうなのであって、外国の価値観をそのまま導入しようとするのは
 理想主義すぎる」という反発が返ってきた。

 「人権」という考え方自体、ある文化圏(アジアにとっては多くの場合「外国」の文化圏)の
 価値観を導入して成立するものだと思うのだが、しかしその価値観の一部は受け入れつつ、
 別の一部は「伝統と食い違うから」と無視する態度は、成り立つものなのだろうか。

 それにしても、日本人にしろカンボジア人にしろ、
 悪い意味での「エリート意識」をもって愛国者らしく振舞おうとする人々の顔は、
 どうしてあそこまで似通った表情を漂わせているのだろうか。
 わたしが「険悪な雰囲気」を感じ取ったのは、もちろん語調が荒々しい議論が始まったからだが、
 講師たちの表情に表れた一定の傾向に勘付いてから
 「何か変だぞ」と思い始めたのだ。
 「官僚的な顔」というものは、本当に万国共通であるらしい。


Kambodia Christian Councel の事務所にて。
General Secretaryを務める牧師(写真左。名前は聞き取れなかった)は
香港で神学教育を受けて帰ってきたばかりだという。
奥の開いている扉の部屋が、SCMの事務所になる予定だそうだ。

今回のワークショップのスタッフを務めた
韓国人の牧師 SHIN(写真右)。
彼は自己紹介の時「わたしの名前はSIN(=罪)ではない」と
冗談交じりに強調していたが、
他人の名前を呼ぶときは、かなり無頓着な発音だった。
たびたび「タコサケ」と呼ばれたわたしは、
「それ、日本語では『蛸』『酒』の意味だよ」と教えたが、
むしろ更に面白がっていたようにしか見えなかった。
真ん中にいるのはカンボジア人牧師(やはり名前は聞き取れなかった)。
プノンペンのプレスビテリアン教会に所属しているのだそうだ。
「あなたは日本のドラマに出てくる人気俳優によく似ている」と言ったら、
しきりに照れていた。

  日本においても、性的少数者やジェンダーの問題は、ようやく一部の人々によって
 意識化され始めた所であるに過ぎない。
 わたし自身のことを省みても、相当に怪しい部分が多い。

 むしろ、そうした現状を話題とする議論が可能な大学生が存在する分、
 あるいは日本よりもカンボジアの方が「先進的」と言えるのかもしれない。

 そして、そのような現状において無力化されている側の人々に注目する時にこそ、
 かえってカンボジアとの連帯の糸口が見出せるのではないか、と
 やや悲観的なことを考え始めたわたしであった。

 マイノリティ同士の連帯に、
 つまりそれぞれの社会において実質的に無力化されている人々による連帯に、
 積極的な意味を見出すことは可能なのだろうか?

 それを可能にすることにこそ、教会の使命があるのではないか、とは思う。
 
 だが、わたしはこれまで、そのような牧師として働いてきたのだろうか?

 むしろ、この時と同じように、
 かたるべき時に語らず(語れず)、
 状況の理解さえ後からようやく得られるような鈍さの中を
 生きてきたのではなかったか。

 とにかく、カンボジアに着いた初日から、
 「これはハンパなことでは帰れないぞ」という予感に
 わたしは囚われていた。


宿泊していた「香港ホテル」から見下ろしたプノンペン市街。
こちらは裏通りにあたる。
主要な道路はほぼ舗装されているが、
ちょっと内側に入り込むとこのような道路がたくさんある。
それでもこの通りは、かなり大きい方。

同じく「香港ホテル」から臨むプノンペン市街。
首都だからかもしれないが、カンボジアでも携帯電話が普及しており、
衛星放送用のアンテナを装備した屋根も目に付いた。
携帯電話で話をする青年の足元にストリート・チルドレンがたむろするという
「貧富の差」が剥き出しになっている光景は衝撃的だった。
だが、独立したテレビ放送局はひとつもなく、
ラジオ放送局もひとつだけしかないのだそうだ。
それがカンボジアの民主化を妨げる大きな要因になっているのだと言う。
確かに、「香港ホテル」の各部屋に置かれたテレビからは、
諸外国のニュースやドラマは流れてくるのだけれど、
カンボジア産のものと思われる番組は見なかったように思う。
中国語の字幕がついた日本のトレンディドラマが放映されていたのまで
見かけたのだが。

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