カンボジアで出会った人々

その2

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
                
マタイによる福音書 第18章 20

 数人のメンバーと、夜毎に飲みにでかけた。
 屋台のようなレストランだったり、開店したばかりの外資系ビアホールだったり。

 「国民の武装率が高いのも問題のひとつ」と聞かされていたのに、
 飲兵衛に国境はないのである。

 ところが、「飲み」に行った皆が酒を飲んだわけでもない。
 恐らく信仰上の理由だろうが、水しか飲まない者がいた。
 また、「アルコールのアレルギーがある」と、コーラばかり飲む者もいた。
 そして、思い思いの飲み物を片手に、その日一日の印象や、
 それぞれの国の事情について語り合うのだ。
 だからわたしも、酔っ払っているわけにはいかなかった。
 酒を飲む人々の英語は、アルコールが進むと聞きにくくなる。
 だが、酒を飲まない人々の英語は、何故かもともと聞きにくいのだった。
 
 わたしがかなり不満に感じたのは、どの店に行ってもビールしかないことだった。
 英会話に疲れた頭を休ませたいのに、ハンパな酔いになってしまうビールしか飲めない。
 酒が入って、ますますスピードアップする英会話に「ギブアップしよう」と決心して
 「ウィスキーは?」と聞くと、「ない」と言われる。
 あっても、「ボトルまるごとで15$」だったりする。

 「発酵食品を食べる習慣が少ないアジアにおいては、蒸留酒は好まれない。
 体内に、アルコールを分解する酵素が育ちにくいからだ」
 という話を聞いた事があった。
  
 あれは、浪人時代の予備校で聞いたのだったか。
 それとも、中退した大学での、一般教養の時間だったろうか。

 忘れていたその授業を、
 ウィスキーを見つけられない1週間、突然に思い出したのだった。


身体障害者のための社会復帰訓練施設の前庭にて。
写真右は台湾から来た牧師の HSIEH。陽気でノリノリの女性だが、
「3年前に母と死別した」という話を聞かせてくれた。
英語力はわたしと同程度のようだったが、電子手帳を片手に健闘していた。
写真左は香港から来た WAN。彼はわたしのルームメイトだったが、
宵っ張りのわたしとの同室は迷惑だったのに違いない。
なぜかダンスだけは嫌がった。

ルームメイトの WAN がわたしを撮影してくれた。
写真左は韓国から来た LEE 。
昨年まで、韓国の宣教団が開いているプノンペンの専門学校で
パソコン教室の講師をしていた。来年から、また同じ仕事をするのだと言う。
LEE は、拙い英語で伝えるわたしの冗談にいちいち爆笑してくれた。
帰途も、バンコクまで一緒の飛行機だった。

 そういう酒の席で、何人かから「どうして牧師になったんだ」と質問された。
 国によっては、あるいは教派的な伝統によっては、
 禁酒禁煙がキリスト教のスタンダードだったりするからだ。
 酒もタバコも口にして、しかも髪が長いわたしが牧師だとは
 なかなか信じられない人々がいるのだ。

 しかも、英語によるわたしの説明は、上手くない。
 時折(というか、かなりしばしば)辞書のページを繰るために発言が中断し、
 文法もバラバラでボキャブラリーも貧困なわたしが語ったのは、
 もちろん自分のカルト脱会体験だった。
 そして、脱会者たちとの出会いから考えさせられた事だった。

 「カルト」と聞いて、その意味内容を理解できる人は、少なかった。
 「破壊的カルト」とか「オウム」とか言ってみても、そうなのだった。
 「思想的には、クメール=ルージュに似た団体」とまで言って、
 ようやく大半の人々が理解を示してくれた。

 だから、わたしが牧師になった動機を説明するのは、本当に大変だったのだ。
 そして、ちゃんと語れたかどうかにも、まったく自信がない。

 コトバというものに、自分はいかに依存していることか。

 飲兵衛の行動様式に国境はないが、交わされるコトバには厚い壁があったのだ。

 それでもみんな、じっくりと耳を傾けてくれた。
 そして、あるメンバーが「君も殺人に荷担したのか?」と質問した時、
 わたしは本当にドキリとした。
 じっくり考えた末に、「直接にはなかったが、同じことだと思う」と答えたら、
 それ以来、彼はわたしの顔を見るたびに
 「TAKE〜」と肩を組んでくれるようになった。

  そういえば、日本で男性同士が肩を組む様子を見なくなったのは、
 いつ頃からのことなのだろうか。
 子どもの頃には、そういう光景をよく見ていたような気がするのだが。

 カンボジアに限らず、東南アジアでは男同士が肩を組んで歩いているのを
 よく見かける。
 日本では、同性同士が体を触れ合う光景が少なくなった代わりに、
 異性同士がくっついている姿の方が多くなったように思う。

 帰国してから、授業中寝ている生徒を見つけた時、
 ためしに肩を抱いて「起きろ〜」と声をかけてみた。
 みな一様にビクンと跳ね起きる。

 同性との肉体的な距離が、遠ざかっている。


「香港ホテル」の隣にある台湾料理の店にて撮影。
もっとも、食材が似ているからか、
わたしには香港料理と台湾料理の違いがわからなかった。
冷蔵庫が普及していないのか、それとも性能が低いのか、
あるいは飲酒人口が少ないせいか、
出されたビールにはたいてい氷が入れられていた(写真手前)。
ちょっと小さいが、中央に写っている「特徴ある額」の人物が、
ワークショップのスタッフである台湾人の牧師 STEPHEN。
見るからにマジメそうな人だが、中身もやっぱりマジメだった。
わたしの知っている日本基督教団のある牧師と、
つい先日会議で話をしてきたのだそうだ。

インドから来た神学生の KENNEDY (写真左)。
皆からは「Mr.PRESIDENT」と呼ばれていた。
彼の発音は、とても聞きにくかった。
しかしクルマの中では、彼とデュエットで歌うことができた。
日本の讃美歌集にも収められている歌を知っていたからだ。
顔を見るたび「TAKE〜」と肩を組むようになったのは、彼だった。

 それぞれが所属するSCMの状況について語り合うのは、
 たいていが夜の飲み会だった。
 昼間の正規のプログラムでそのような時間はなかなか取れなかったからだ。
 昼間は皆、それぞれが見聞きしたことを整理するので手一杯になってしまう。
 日常言語が英語でない人々は、程度に差はあれ、同様の苦労をしているのだ。
 ちょっと安心すると共に、逆に身が引き締まる思いも味わった。

 断片的にしか理解は出来なかったものの、
 各国のSCMに際立って共通していていると感じられたのは、
 構成メンバーの少なさだった。

 日本の学生YMCAも、人数が減ったと言われる。
 だが、中には「わたしが唯一のスタッフでありメンバーです」と語る者もいた。
 つまり、その国のSCMは、彼一人しかいないのだ。
 日本は、そこまで数が減ったわけではない。

 「アメリカ的価値観に疑いを持ち始めると、数は自然に減ってしまう」
 と分析する人もいた。
 自分の立場性を支えているものに挑戦する運動は
 賛同を得られない方が当然だ、と言うのだ。

 だが、皆そこに落胆を感じてはいない。
 イエスが「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13)と語ったからだ。

 あるメンバーは、
 「わたしたちの訴えに賛同する人は多いのに、共に立ちあがる人が少ないという時、
 それはわたしたちが正しい道を進んでいるという証拠だと信じている」
 と、力強く語った。

 わたしはカルトにいたとき、
 「賛同する人も共に立ちあがる人も少ない」という状況を打破するために、
 「正義のためだ」と念じながらウソをつきまくった。
 賛同が得られないのは、皆が真理を知らないからだ、と信じて。
 その団体は、対内的には非常に強力な結束力を持っていたが、
 対外的には巨大な「集金システム」としてのみ知られるようになった。
 ただし、正義ではない、と見なされている。
 だから今日に至るまで、ウソに拠らなければ誰からも賛同は得られないでいる。
 彼ら自身、現在でも、批判に対する有効な反論はできないままでいる。
 「自分たちこそ正義だ」と、ただ自分に言い聞かせるために呟いているだけだ。

 その反省から、わたしはむしろ勢力の少なさに注目するようになった。
 少ないということ、小さいということ、無力であるということ、
 それにどう耐えているか、耐えて行くか、ということがわたしの基準となった。

 そのカルト団体のように悪辣な手段は採らないでいるけれど、
 やはり自分に言い聞かせるためだけに「自分たちこそ正義だ」と呟くような団体は、
 キリスト教の中にもたくさんある。
 かりそめの勢力をかき集めて、それだけで満足しているようにしか
 わたしには見えない。

 だが、ここまで「小さな者」としてあることを誇りとする人を見つけたのは、
 初めてのことだった。


プノンペンから自動車で1時間ほど来た所にある村の風景。
(写真ではわかりにくいが、中央のクルマの更に奥に家が点在している)
市街はかなりの都会だが、郊外はこのような風景の方が多かった。
強制退去させられていた人々が、現政府から割り当て地をもらって
復帰しているのだそうだ。
漁業と稲作が主な生産物で、それも商売にするほどにはならないらしい。
ガイドの MAO は、「最も貧しい地域のひとつだ」と説明した。

小さな釣竿をたくさん作っていたおじさん。
エサのカエルを仕掛けてみせてくれた。
この竿を、川岸や船べりに並べて使うのだそうだ。
この建物は通りに面していたので、あるいは釣具屋だったのかもしれない。
他にも、迷い込む魚を獲るための「ウケ」や
少人数で引っ張るような投げ網が干してあったりした。
奥の方にある母屋も、この建物と同じような造りだった。
そこに家族が雑魚寝して暮らしているのだ。

 カンボジア国民の武装率が高いのは、兵役のシステムとの関係が深いとわれるが、
 数年前からポリス=アカデミーが資金難のために閉鎖されており、
 質が落ちる一方の警官や増えつづける犯罪に対して
 市民が自衛する必要があるからだそうだ。
 武器を供給しているのは、恐らく国家である。

 2年ほど前、酒場で警官と軍人が酔って乱闘する騒ぎがあったそうだ。
 一旦は収束したそのケンカは、それぞれがキャンプに戻って報告した途端に再燃した。
 警官たちはM16ライフル(アメリカ製)で、
 兵士たちはAK47ライフル(旧ソ連製)でそれぞれ武装し、
 市街戦さながらの大乱闘に発展したのだという。

 こんな風に、冷戦の影響が残っているのだ。
 特にカンボジアは、東西の代理戦争の舞台となった国でもある。
 
 酒場の周囲には、深夜にもかかわらず、
 客の食べ残しを期待するストリート・チルドレンや、
 花輪だの楽器だのを売り歩く行商人や、
 客を捕まえようと躍起のタクシーが集まっていた。
 ウェイターの中には10代半ばの少年も多かった。

 夜になっても気温が高いからだろうが、野宿者もかなり目に付いた。

 我々の中にも、到着したその日に(白昼に!)引ったくりの被害に遭った者や、
 最終日になって財布を盗まれた者がいた。
 不注意とか、そういうレベルの話ではないのだ。

 そんな中で、よくもまあ酒を飲みに出歩いたものだ、と今は思う。
 
 しかし、それだけのことはあった。

 我々が貧困と暴力に溢れる世界に生きていて、
 その中でもわたしなどは、かなりの特権階級に属しており、
 酒を飲みながらコトバの上での「正義」なぞを問題にしていられる余裕があるのだ
 ということを、再確認させられた。

 それに「意味がない」とは言わない。
 でも、限りなく薄い意味しか持ち得ないだろう、と思う。

 「狭い門」を目指さない限りにおいては。


ロバに見えるかもしれないが、イヌである。ずいぶん耳が大きかった。
アジアのイヌはたいてい同じだが、呼びかけても逃げ回るばかり。
日本のイヌのようには可愛がられていないらしい。
あるいは、食用の家畜なのだろうか。
唯一の例外は、地雷犠牲者の社会復帰施設にいた
HAPPY という名の黒いイヌで、
彼だけは、まるで我々のガイドのように振舞っていたのだ。
イヌを可愛がるだけの精神的な余裕がある場所だったのだろうか。
残念ながら、HAPPYの写真は撮り損ねた。

ボートを使って行商する女性たち。果物や漬物を売っていた。
現地通貨を全く持っていなかったわたしは、何も買えなかった。
ボート上で生活している家族も多いのだと言う。

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