クメール=ルージュの遺跡
その1
お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。 どれほどの祈りを繰り返しても、決して聞かない。 お前たちの血にまみれた手を 洗って清くせよ。 悪い行いをわたしの目の前から取り除け。 悪を行なうことをやめ 善を行なうことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。 イザヤ書 第1章 15-16 |
恐怖政治を行なったクメール=ルージュは、
決して一枚岩の団体ではなく、内部には様々な党派があったらしい。
しかし大きな権力を持っていたのは「アンカ」と呼ばれるグループで、
その中で中心的だったのは10代半ばの少年少女であったという。
そんな子どもたちが、「カンボジアをダメにした大人たち」を粛清しまくったのだ。
ワークショップの2日目に用意されたのは、
このクメール=ルージュによる「暴虐」の跡を訪ねる視察だった。
クメール=ルージュについては、
今回のカンボジア行きを持ちかけられる以前から、
カンボジアがどこに存在する国なのかを知らない頃から、
意識して情報を集めていた。
『キリング・フィールド』という映画を観ていたし、
日本人ジャーナリストによる写真や本を読んでもいたからだ。
それでもわたしは、物凄く大きくて重い衝撃に襲われてしまった。
わたしたちは、こんな世界に
こんな歴史の延長に
生きているのだ。
クメール=ルージュが「政治犯」を収監した刑務所の跡 (現在はクメール=ルージュに関する博物館となっている)。 学校の校舎を改造して刑務所にしたのだという。 学校というものは、 根本からして刑務所的なシステムでしかないのだろうか。 写真では分かりにくいが、鉄棒に並んで 収容した「政治犯」を吊るす木の枠が設置されている。 その手前に置かれたベンチは 元々学校の設備としてあったのか、 それともクメール=ルージュが設置したものか、 あるいはここが博物館になってから作られたのか、 不明である。 |
独房として使用されていた部屋。 収容されていた「政治犯」は 鉄製のベッドに固定されたまま殺害されていた。 壁に架けられているのは 発見された遺体を撮影した写真。 写真中央に置かれている弾薬箱は、 囚人の便器として使用されていた。 この部屋の囚人は ベッドに置かれたスコップで殺害されていた。 |
同じく独房。 写真中央に置かれている鉄の棒は、 囚人の足を拘束するための道具。 |
逃亡を防ぐ目的で、 クメール=ルージュは囚人たちの顔写真を撮影していた。 囚人たちの処刑後もそれを残していたのは、 単に「逃亡を防ぐ」ためだけではなく、 一種の「トロフィー」としての意味があったのではないか。 東チモールに関する報道で、 敵の生首を誇らしげに掲げる 自動小銃片手の少年の写真をみかけた。 あの首は、少年にとっては トロフィー以外の何物でもなかったように思うのだ。 ナチスが残していた収容所の囚人たちの写真にも、 同じ印象を抱いたのを思い出した。 |
同じく、囚人たちの写真。 ガイドの女性が示す写真の囚人は、 顔面に唇を破壊する拷問の跡をとどめていた。 その手前には、赤ん坊と共に収容されていたらしい 囚人の姿がある。 下段の2列に並べられた写真は、全て当時の クメール=ルージュのメンバーたち。 10代前半と思われる者が殆どだった。 |
参加者たちには、クメール=ルージュとナチスとの
類似性に言及する者が多くいた。
わたしも、日本で見た「アウシュヴィッツ収容所」展示会で感じた印象と
似たものを強く感じていた。
「どうして人類は、同じようなことを繰り返すのだろう」
そう話し合うメンバーたちを見ながらわたしの心を捉えていたのは、
負の歴史に対するやりきれなさではなく、
「自分も同じことをやり得るのだ」という戦慄すべき予感であった。
「ナチスやクメール=ルージュがとりわけ異常だったから
このようなことが行なわれた」のではない。
「戦争中の日本人は異常だったから戦争を起こした」のでないのと同様に。
「戦争中の日本兵が異常だったから虐殺を行なった」のでないのと同様に。
「原爆投下は正しかった」と考えるアメリカ人が、異常とは言えないのと同様に。
状況さえ整えば、「普通の人」こそが、このような残虐を可能にするのだ。
囚人たちから略奪した衣服は、 右の写真のように山積みにされて発見された。 左のガラスケースに収められているのは、その実物。 |
囚人たちの写真は、特別製のイスに頭を固定した上で 撮影された。 |
現在も保存されているそのイスに、 SHINが座ってみた。 長身の彼には、固定金具がうまく合わなかった。 |
収容所に残されていた クメール=ルージュの指導者 ポル=ポトの胸像。 解放された囚人によるものか、 あるいは他の者によるのか、 顔にバツ印が落書きされている。 |
収容された囚人は20000人を超えたが、 生きて解放されたのは6人だった(うち4人が現在も生存)。 その中の1人が画家であり、当時の様子を油彩画に描いている。 |