クメール=ルージュの遺跡
その3

見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、
また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
そのとき、主はわたしに言われた。
「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」

わたしは答えた。
「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」

              
エゼキエル書 第37章 2-3


慰霊塔の周囲は、実に穴だらけだった。
そのひとつひとつから、
無数の人骨が発掘されたのだ。

木と、その手前に掘られた穴。
「クメール=ルージュは、赤ん坊たちの足首を掴んで
この幹に頭を叩きつけて次々に殺し、
遺体をこの穴の中に投げ込んで棄てたのだ」
と、ガイド役の MAO は説明した。

 この1本の木を目前にして、われわれ一同は全く言葉を失った。
 
 「1本の」とは言っても、この木は
 幾本もの木が寄り集まって1本になっているのだ。
 そのために、切り倒すのが大変で、
 大きく張った根のために、切り株の処理も容易ではないのだそうだ。

 つまりこの木は、ひとつの生命ではなく、
 多くの生命が集まって「ひとつ」を形作っているのだ。
 言わば、生命の象徴ですらある木なのだ。

 「この木の下で瞑想すると、悟りが開ける」という
 仏教の伝承もあるのだという。

 人間は、生命を殺す道具として、
 生命そのものを悪用することさえするのだ。

 なぜ、この木が虐殺の道具として選ばれたのだろうか。
 たぶん、その辺に幾らでも生えている
 当たり前の珍しくもない木だからだ。
 虐殺者は「選んだ」という自覚さえなかっただろう。

 殺された赤ん坊たちも、なぜ自分が殺されるのか、
 分からなかったに違いない。

 ボーディと呼ばれるこの木は、
 今は「ただの木」として生きている。
 もはやただの木ではありえないけれど、
 ただの木として生きることが、既に歴史の証人となっている。

 そのような「ただの人間」として、
 わたしも生きられるだろうか。


 わたしは日本で、牧師をして、学校教師をして、
 カルト=メンバーとその家族の救援と、電話によるカウンセリングと、
 精神障害者福祉とSCM活動のボランティアをしている。

 それらの働きにあって目指すべき共通項として見え始めていたのは
 「マイノリティとして生きる人々との連帯」である。
 マイノリティである、ということは、
 様々な暴力に囲まれて生きるということと同じだ、と考え始めていたのだ。
 暴力に晒されて苦しむ人々との連帯にこそ
 わたしの生きる道がある、と考え始めていたのだ。

 だが、その「暴力」に対して、わたしは極めて弱い。
 かつて、カルトを脱会するに際して、
 それまで「仲間だ」と信じていた友人たちから
 暴行を受けた経験があるからだ。
 このカンボジアへの旅行においても、
 暴力の事実によって想起させられる暴力の記憶によって、
 また、暴力の事実を想起させるような気温の高さによって
 (わたしが暴行を受けたのは、日本の夏の出来事だったからだ)、
 この時のわたしは、またもショック状態に陥りつつあった。

 「またも」と書くのは、この夏、既に不眠による大腸炎で
 2週間の入院をしたからだった。

 そのようなわたしの体験すら、
 カンボジアに見た暴力の事実に比べれば、
 全くたいした事はないように感じてしまう。

 もっと小規模な、もっと些細な、
 暴力とも言えないような暴力によって、わたしは
 ほとんど立ち上がれないようなダメージに苛まれてしまうのだ。

 わたしは日本を出発する前から
 「自分の働きに、いったいどんな意味があるというのか」と
 疑い始めていたし、
 カンボジアに来てからは、より一層
 自分の体験・自分の存在の
 「薄さ」「軽さ」を痛感するようになった。
 自信を失っていた。

 それでも、この木を見ながらひとつの確信が与えられたのだ。
 その大小にかかわらず、暴力は暴力であり、
 従って、働きの大きい小さいに関わらず、
 暴力に立ち向かう者は、
 全ての暴力に対する闘いを挑んでいるのである。

 わたしたちの生命は、そのためにこそ与えられているのだ。

 わたしたちに必要なのは、その闘いに臨む
 決意と勇気のみである。
 そして、それらを支える信仰である。
 「わたしは歴史の証人として生きる、1本の木である」
 という信仰である。

 思えば日本には、
 生きる意味を見出せないために、
 喜びも悲しみも持たず、
 絶望も希望も知らない若い人々が多くいる。

 「暴力との闘い」というテーマを携えて彼らと生きていくならば、
 わたしの命は「決意」と「勇気」を育てあうために、
 そこに生かされるのではないか。


我々は、その木の前で礼拝を行なった
それぞれがローソクを携え、中心のローソクから火をもらい、
お互いのローソクに火を分け合った。
少しの風で、その火はすぐに消えてしまう。
火の分かち合いは、礼拝の間中続いた。
そして、火をかばいつつ、また分け合いつつ、
それぞれの国の言葉で祈りを捧げた。
冒頭のページに掲載した写真のローソクは、
この時に使用したものだった。

クメール=ルージュによって虐殺された人々の
追跡調査を続けている政府の施設(Documentation Center)
にて記念写真。
ストロボの光量が足りず、かなりブレてしまった。
通常この場所は観光客などは入れないのだそうだが
この時はカンボジアSCMの働きかけによって見学が許可された。
たくさんのネットワーク化されたパソコンに
あちこちから発見される情報を入力してデータベースを作成している。
主になっているのは、
クメール=ルージュが囚人を処刑する前に記録した
自白調書だそうだ。
積み上げられた未処理の書類の箱の山を見て、
「本当にたくさんの人々が殺されたのだ」という実感が
改めて湧いてきた。
各パソコンには「Searching for truth!」という文字が
スクリーン・セイバーとして表示されていた。
この団体はインターネット=ホームページによる
アピールも行なっている。
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