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『竹迫牧師のキリスト教入門記』(仮)  もくじ


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脱会に至るまで

 当時の池袋東口側は、毎週日曜日には歩行者天国として開放されていた。われら「学生部受験科」は、この歩行者天国を行き交う人々を追いかけて「伝道」活動に励んだが、時には新規メンバー獲得を狙ったスポーツ大会などのイベントに駆り出されることもあった。また、シルベスター=スタローン主演の『ランボー 2』だとか、突然攻め込んできたソ連兵に対抗して高校生たちがゲリラになる『若き勇者たち』などの反共映画を観せられ、「第三次世界大戦が起こったら、我々学生が率先して銃を執り、共産主義者たちとの戦いに赴かねばならない。我々は、スタローンもしくは『ランボー』なのだ」という趣旨のアジテーションを聞かされたりした。「その使命を果たすために、我々は大学生になる」と決意を新たにしたものだ。
 それまで、「信念」を持って受験勉強に励んだ経験などなかった。映画作家になる夢を捨てきれなかったおれは、そうした一連の活動を経て「世界平和のため、またはT協会の地位向上のための啓蒙映画を作る」という目標を持つことになった。この時点で「映画作家になる」という目標が、創作活動という次元からは大きくズレていたことに、おれはまだ気づかなかった。
 もう既に、Sとは友人ではなく「親子」関係になったつもりでいた。実はSも「学生部受験科」に所属させられていたが、「霊的な関係を優先せよ」というT協会の教えに従って、両者の序列を明確にしておくよう求められたからだった。
 同時におれは、Iとの恋人関係も清算したつもりになっていた。本当は、お互いにまだ惹かれ合っていたのだとは思うが、内部のメンバー向けに製作された映画(実名は控えるが、そういうプロパガンダ映画の制作を請け負う「本職」の映画監督がいたのだ!)を通じて、それが「罪の関係」であることを叩き込まれていたからだ。T協会では、M教祖による組み合わせで成立する「合同結婚」以外の男女関係は、全て「罪」とされていた。極端な場合には、「女性が使用した」と知らないまま布団に寄りかかっただけでも、ぶっ飛ばされることがあったほどだ。
 とにかく、おれたちは「清い生活」を送るように指導された。そしておれたちも、「選ばれた勇士」として、それに従うことを誇りに感じたものだった。
 生まれてこの方現在に至るまで、これほどに「精進」した記憶はない。
 その努力の甲斐あってか、年が明けてから間もなく、おれは日本大学芸術学部に合格することができた。ただ、やはり成績が足りずに第一志望の映画学科に入り込むことは出来ず、何の裏づけもないまま何気なく第二志望として申請した写真学科に、やむなく入ることになった。
 合格が決定したおれは、ただちに「どうしたら写真学科から映画学科に転科できるか」を調べた。一年生の間に成績・出席日数の八割以上を満たしているなら、転科試験に挑戦する資格が得られるということを知った。
 大学生になったからには、これまで要求されていながら免除されてきた様々な義務を、率先して果たさなければならない。四月になると同時に、それまでお預けになっていた「二十一日間」に参加することを決意した。それに先立って、なぜかもう一度「四日間」に参加せよとの指令を受けたので、おれは更に確信犯的な「サクラ」を演じるために、それに参加した。
 おれの両親は、大学合格直後に「四日間」に参加することについて、強い懸念を表明した。そして、ほとんど何の相談もないままに「二十一日間」への参加を決めたことについて、とても強く反発した。おれはそれを全く無視して新生活に突入した。
 おれはこの時、既に「T協会に献身する」という決意を、両親に語っていた。その時おれの両親は、T協会について「名前を聞いたことがある」という程度の、おれとそんなに変わらない知識しか持っていなかった。だが、それでもおれの行動に異様さを感じ始めたのか、すぐにT協会について手に入る限りの資料を集め始め、四月の半ばには、それがとても危険な問題をはらむ「宗教団体」であることをつきとめていた。
 その時のおれは、高校時代から客として通っていたエアガンの専門店でアルバイトを始めていた。合宿所で目覚め、朝食をみんなで一緒に食べてから、大学での授業を受ける。夕方にはその店で、好きなエアガンに囲まれて働き、店が終わってから深夜にかけてはT協会の「活動」に汗を流す。当時のおれにとっては、夢のように理想的な生活を送っているつもりになっていた。
 T協会の実態について知れば知るほど不安に覆われていった両親のことなど、まるで考えてはいなかった。
 ある日、アルバイト中だったおれは、店長に呼ばれて事務室に入っていった。何かの仕事を言いつけられるのだろうとばかり思っていたのだが、まさかそこにおれの両親が待っているとは予想していなかった。二週間ぶりに再会した両親と少しの間押し問答をしたあと、おれは店長と両親によって強引にタクシーに乗せられ、自宅に連れ戻されてしまったのだ。
 東京の池袋から埼玉の狭山市までの約1時間、隣に座った母親は、おれの右腕をしっかりと、しかしガタガタと震えながら、掴んでいた。その時の両親がどんな表情をしていたのか、今となっては全く思い出せないのだが、右腕に絡み付いていた母親の手の感触だけは、まるで今でも掴まれたままであるかのように、妙にリアルに残っている。
 そのまま一直線に狭山市まで連れ戻されてしまったおれだったが、途中で隙を見て、合宿所に電話することができた。
 「両親との行き違いは、あなた自身の問題だ。それは、あなたの責任において解決しなさい」と、電話に出た幹部はおれに言った。後になって知ったことだが、これはT協会お得意の「トカゲの尻尾切り」だった。仮に、T協会のメンバーが違法な活動に参与していたことが発覚したとする(実は「仮に」でもなんでもなくて、メンバーたちはT協会の指示にしたがって、数々の違法活動に従事させられており、その多くが実にたくさんの訴訟を引き起こすまでになっているのだが)。するとT協会は、「その犯罪行為に、T協会は全く関与していない。その犯罪行為は、そのメンバーが自発的に、勝手にやったことだ」と言い抜けようとする。このときのおれは、まだそれほど深刻な犯罪行為に荷担していたわけではなかったが、幹部にとっては誰でも同じことだったのだろう。ある意味で「助け」を求めたおれは、当のT協会から見捨てられたも同然の状態に置かれたのだった。
 だが驚いたことに、と今となっては書かざるを得ないのだが、おれはその言葉を、全くの善意に解釈したのだ。電話を切ったおれは、「おれはこれから、世界の救いのために献身するのだ。自分の家族すら説得できない者が、世界の救いのために働くことなどできるはずがない。おれは、必ず両親を説き伏せて、合宿所にもどってやる」と決意していたのだった。まさか幹部の対応がT協会の責任を逃れるためだけのものだったとは、想像すらしていなかった。
 予想通り、自宅に帰りついてからは「今後はT協会と一切関わらないで欲しい」との説得を両親から受けることになった。両親によれば、元々おれは「手がかからない、いい子だった」のだそうだ。そのおれが、それまでは反抗らしい反抗をせず、いやなことがあればテレビにかじりつくばかりだったこのおれが、この時ばかりは頑として説得を受け入れなかった。両親はかなり戸惑ったようだった。
 話し合いは、夜通し続いた。平行線のままの押し問答に疲れ始めた両親は、次第に要求を弱め始め、「とにかく合宿生活だけはやめて、自宅に戻ってほしい。T協会に関わるにしても、自宅から通って欲しい」とまで譲歩するようになった。
 このときのおれは、両親に自分の言い分を認めてもらえたことの嬉しさで有頂天になっていた。自分に与えられている使命のために、小さいが着実な一歩を踏み出した、という実感を掴んだ気持ちになったのだ。
 「おれは、自分の力で両親をコントロールできるまでに成長した」と感じたことが、とても大きな喜びとなったのである。おれの両親は、客観的にはそれほど高圧的な人々ではなかったが、おれ自身はずっと「両親のコントロールは、逃れるのには困難なほど強い」と感じていたのだった。
 いつからそんな風に感じるようになったのか、何を根拠にそんな風に思うようになったのか、実は今でもうまく説明ができないでいる。おれのものではない「都合」で、おれの意思とは関係なく新しい環境に「適応」させられるという"引っ越し体験"の積み重ねが、おれにそんな思いを抱かせるようになったのかもしれない。あるいは、精神的にも経済的にも両親に依存しっぱなしだった自分の生活を正当化するために、「支配する親」というイメージを勝手に膨らませていたのかもしれない。
 少なくとも、「日大の芸術学部に入って映画監督になる」というおれの夢には、かなり現実逃避的な意味合いが濃かったように思う。それを心のどこかで自覚しながら、しかし「純粋に映画監督を目指している」というふりをしていたおれは、少なからず疚しさを感じていたようにも思うのだ。ロクに勉強もしないまま大学を落ちてしまったにも関わらず、多少の文句は呟きながらも浪人生活を保証してくれた両親に対して、そればかりか小額とは言えない予備校の授業料と、多額と言うべき大学への入学金を払ってくれた両親に対して、漠然とした罪悪感を覚えていたように思うのだ。
 「早く自立して、大人にならなければ」という焦りが、おれにはあったのだろう。だから、「合宿生活はただちにやめるが、自宅から学校とT協会に通う」ということで合意に漕ぎ着けた時に、おれは圧倒的な勝利感を覚えたのだった。おれも成長したのだ、という証拠を掴んだ気になっていたのだ。
 翌日からおれは、始発電車に乗って合宿所へ行き、大学生活とアルバイトをこなし、夕方から合宿に参加して、終電車で帰宅するという、とんでもない生活を始めることになった。帰宅も出発も、両親が寝ている間のことだった。朝食も夕食も協会の仲間たちと一緒だ。アルバイト先の店長にも「両親とは和解できた」と説明した。T協会に対して個人的な批判を持っていた店長は、かなり疑わしい視線を向けてはきたけれども、おれが本当に自宅で寝起きしていることを知ると、「あとは家族の問題だから」と首を突っ込まなくなった。
 肉体的にはかなりハードだったが、実質的には合宿に参加しているのとほとんどかわりない生活を送ることができたのだった。当然、両親は「それでは合宿をやめていないのと一緒だ」と文句を言った。が、おれは「約束を破った覚えはない」と譲らなかった。こうして、「二十一日間」は終わった。
 だがおれたちには、直後に続けて「三ヶ月間」の合宿に参加することが要求されていた。「いくらなんでも、それは無理だ」と、さすがにおれは思った。「二十一日間」ですらこの有様だったのだ。その上三ヶ月も延長することなど、どう考えても両親に対する約束違反だと判断せざるを得なかった。
 「三ヶ月間」に参加する返事の期限まで、あまり時間がなかった。実は「考える時間を与えない」ということもT協会お得意の誘導テクニックのひとつなのだが、当然おれはそんなことには気付かなかった。「早く参加の返事をしなければ」と焦り(つまりおれの心の中では、「参加しない」という選択肢はありえなかったのだ)、しかし両親にはなかなかそれを切り出すことが出来ないでいた。
 そのまま、ついに合宿初日の五月一日を迎えてしまった。合宿の参加者は、まずは大型バスを何台か連ねて仙台への観光旅行に出かけることになっていた。おれは、どうしてもそれに参加したいと思っていた。もちろん、その旅行だけではない。「三ヶ月間」そのものに参加しようと決めていた。まだ両親が寝ている早朝に起き出したおれは、最小限の衣類をバッグに詰めて、「どうしても行かなければならない」という説明をするためだけの長い手紙を書き残して家を出たのだった。
 良く晴れた日だった。明るい日差しの中を、「ついに家出までしてしまった」という悲壮感と、それとは全く矛盾する気持ちだったが「これで合宿に参加できる」という喜びとを抱えて、おれは駅へ向って歩いた。一歩一歩の足どりが、まったくの別世界に続く道のりを辿っているように感じられた。目の前には「喜び」と「希望」しか存在していなかったのだ。
 おれは、すばらしく高揚した気分のまま電車に乗った。まだ時間が早かったので、車内には数えるくらいしか乗客がいなかった。その、居眠りしたり新聞を読んだりしているひとりひとりの顔をじっくりと眺めながら、「おれは、あなたたちのために闘っているのです。あなたたちのために家族を捨てて、ここにいるのです」と心の中で呟いていた。それは、とても誇らしい気分だった。
 だが本当は、この時のおれを動かしていたのは、もう「優越感」などではなくなっていたのだ。むしろ、「このままでは世界が滅びる」という切羽詰った危機感に支えられていたのだ。
 その前の年に、ジャンボジェット機が墜落して乗客・乗員のほとんどが死亡するという大事故が起こっていたが、おれたちは「あの事故は、お前たちが献身の決意を渋ったからこそ、悪魔側の勢力が勝利して起きた惨事だった。お前たちが要求された義務を果たさない限り、同様の、そしてもっと悲惨な事件が、繰り返し起こるだろう」と聞かされていた。その言葉を聞いて、予備校生だったおれなどは、一時の役にしか立たない受験勉強に励まなければならない自分を悔しく思ったものだった。おれたちは、全世界を人質に脅迫されているのも同然だったのだ。
 実はこうした論法は、他の「ニセ宗教団体」でも同じように使われているテクニックのひとつに過ぎない(「情報コントロール」と呼ばれている)。おれたちの決断の鈍さがジェット機の墜落事故の原因となった、という因果関係は、絶対に証明が不可能だ。それは、神だとか悪魔だとか霊界だとかの「実在」が証明できないのと同じことだ。「信念」の世界と「実在」の世界とは、本来的に別次元の物だからだ(おれがドキュメント・タッチで作られるオカルト番組を批判する根拠も、ここにある)。
 しかし、このことは普段はあまり考慮されない。
 通常の「常識」では、因果関係が証明できない事柄には「因果関係は存在しない」(この場合には「ジェット機の墜落は、おれたちの決断の鈍さとは関係がない」)と判断することになっている。だが、その根拠とされる「証明できない」という事柄だけに注目すると、その判断は絶対ではなくなってしまう。「因果関係が証明できない」ということが、直ちに「因果関係が存在しない」という意味には、本当はならないからだ。「実際は因果関係が存在するのに、それを証明する手段がない」という意味にすりかえることも可能なのである。
 「そんな無茶な」と思うかもしれない。でもこのことは、結構見過ごしにされている「常識」の弱点だ。
 戦時中の日本では、「この戦争には、まちがいなく勝利する」という内容を語らない戦果の報道は、まったく禁じられていた。その結果、ほとんどの日本人は「我々は必ず勝利する」という「信念」を保って生活していた。それは、当時の軍部がコントロール下に置いていた新聞やラジオの報道以外の手段では、因果関係を証明するような情報が流されなかったからであって、「昔の日本人の知能が低かったから」ではない。
 もっと身近な問題で考えてみよう。現代の平均的な日本人ならば、「地球は丸い」ということは幼稚園児ですら知っている事柄だ。だが、それを自分の肉眼で確かめた日本人は、どれだけいるだろうか。毛利さんだとか向井さんだとか、日本人として宇宙に出ていったごく限られた人だけが、それを目撃したに過ぎないことに気付くはずだ。
 「ちゃんとテレビに映っている」とか「新聞や雑誌に写真が載っている」と考える人は多いだろう。しかし、それが本当に「事実だ」ということを自分の目で確かめた人はわずかしかいない、という事実は変えようがないのだ。今日の我々が当たり前のように受け止めている「地球は丸い」という事柄は、実は数多くの二次情報・三次情報(自分の目で直接確認したのではない情報)に依存して構成されている「信念」に過ぎない。自分で確かめたのではないままの「地球は丸い」という「信念」を、ほとんど多数決としか言えない根拠に基づいて信じ込んでいるに過ぎないのだ。我々のほとんどは「地球が丸い」という「信念」の因果関係を説明できないままなのだ。
 T協会を始めとする「カルト」は、普段は顧みられないような、こういう「常識」の弱点を巧みに突いてくる。普通なら「実は地球は四角いのだ」と説明する人が現れたとき、我々はそれをなかなか事実とは認めないに違いない。だが、「あなたは地球が丸いという事実を、自分の目で確認したわけではない」と指摘された上で、さまざまなそれらしい証拠(たとえば、パソコンなどを使って加工された「四角い地球」の映像など)を次々に見せられたら、そして周囲に潜伏する「サクラ」たちが口々に「そうか、本当は地球は四角かったんだ!」「わたしたちは、騙されていたんだ!」と叫ぶような環境に置かれたら、どうなるだろうか。その上、「わたしは地球物理学を三〇年も研究してきた」という白衣の老人が現れて、「長年の研究によって、地球は間違いなく四角いということが証明された」と専門用語を交えながら断言するのを聞かされても、「地球は丸い」という「信念」を保つことができるだろうか。さらに「本当は"地球"という呼び方は正しくない。本来は"地角"と呼ぶべきだったのだ」と教えられるままに、「地角」という用語を日常的に使う集団の中に置かれても 、あなたはあのガリレオ=ガリレイのように「それでも地球は丸い」と頑張れるだろうか。
 これが、一般に「マインドコントロール」と言われる誘導テクニックの構造だ。その場に引きこまれた者なら、誰でも間違いなくコントロールされてしまうほど、強力な方法だ。しかし実は、我々が持っている「信念」のほとんどは似たような構造で成立していることも、理解できることだろう。
 つい「ガリレオ」の名前を出してしまったので、そのついでに書いておく。旧約聖書の一番始めに置かれた『創世記』の第一章には、「神によって、天地が七日間で造られた」という話が書かれている。

 「第一の日に、光が創造された。第二の日に、大空が造られた。第三の日に、海と陸とが分けられた。第四の日に、天空を行き交う太陽と月と星が置かれた。第五の日に、海の生物と空の生物(鳥類)が造られた。第六の日に、陸上の生物が造られ、中でも人間は天地の支配者するものとして特別に"神の形"に創造された。第七の日に、神は自分が造ったものを眺めて満足し、休みをとった。」

 これが『創世記』第一章の粗筋だ。
 おれは高校の授業でこの部分を扱う立場にいるので、生徒たちに読んでもらってから感想を聞く。すると、みんな口々に「これはおかしい。間違っている」と言い始める。
 その根拠は、おおむね「進化論と違っている」「天動説(天体が地球の周りを回っているとする考え方)をとっている」「環境問題に照らして考えれば、人間が支配者だとする考え方は傲慢だ」という三つに分けられるようだ。最初の二つは、「一般常識とされている科学主義的な世界観と合致していない」と言い換えられる。最後の一つは、「一般常識とされている倫理観と合致していない」と言い換えることができる。そして、「聖書なんてものは、ところどころには立派なことが書いてあるかもしれないけど、丸ごと信用するには値しない書物だ」という結論が導き出されることになる。
 この結論は、「正しい」とも言えるし、「間違っている」とも言える。
 おれたちの多くが常識的に持っている「信念」と合致していないことは明らかだ。キリスト教文化圏では『創世記』に示されるような世界観が長い間支配的だったから、ガリレオに代表される「科学者」たちを実力で排除してしまったという歴史もある。もしも「進化論」を否定するなら、動物実験を基礎にする「医学」も成立しないことになる。そして、「人間は世界の支配者だ」という傲慢な思い込みが、産業革命を契機に今日見るような破滅的な環境破壊を引き起こしてしまったのも事実としか言えないだろう。そういうことを踏まえて考えれば、「聖書に書かれていることを丸のみするのは間違いだ」という結論は、正しいと言える。
 だが、実はその考え方には"落とし穴"もある。
 そもそも『創世記』に見られる世界観を否定することになった「科学者」たちには、実は「神様が創ってくださったこの世界を、もっと良く知りたい」という「信念」に基づいて研究を始めた、とても熱心な信仰者が多かったのだ。つまり「世界は神によって七日間で造られた」という世界観がなければ、そもそも彼らは「科学者」にはならなかったはずなのだ。
 つい先日、マウスの精巣を使って育てた人間の精子の体外受精に成功した、という報道がなされた。それが本当ならば、精子を作る機能が低下しているために子どもを持てなかった男性にも、自分の子どもを持てるようになる、という可能性が開かれることになる。進化論を基礎とする生物学からすれば自然な発想なのかもしれないが、マウスの遺伝子が思わぬ「悪影響」を与えるかもしれない、という批判も急速に高まっている。「本当に進化論が正しいのか」ということが全く証明されていないにも関わらず強行されてしまった実験なので、批判は当然のことにも思える。だいたい「人類がサルから進化した」ということを、肉眼で観察した人類が存在するのだろうか。我々の多くは、どこの誰とも知らない人々が言ったことを鵜呑みにして、自分の生命の行方を赤の他人に預けるという危険な生活を送っているのだ(もっとも、近頃の進化論は「サルが進化して人間になった」というような単純な理論ではない、とも聞いているけれども)。
 そして「人間が地上の支配者だ、という考えるのは傲慢だ」という反論は一見もっともらしく聞こえるが、それならその人は「支配者ではない生活」を送る覚悟を、どれだけ持っていると言うのだろうか。
 個人レベルでは、自然と共に生活するという思想を実践する人々も存在する。それは「立派なことだ」とおれ自身も考えている。そして、ある国では現在でも(思想的な理由ではなくて、経済的に貧しいからだが)電気を使わないで生活している人々が存在する。そこには、電気を使っているおれたちには想像も出来ないような「豊かさ」が見られる場合も多いように感じられる事実はある。
 だが、だからと言って人類は、この「文明生活」を捨てることができるだろうか? 個人レベルでは、現在の消費文明に異を唱える人もいるが、それが全人類的な決断に結びつくとは、おれにはどうしても考えられないのだ。「支配者だと考えるのは傲慢だ」という視点が大事なのは確かだけれども、それが実践されない限りは「絵に描いた餅」としか言えないのではないか。環境を破壊しまくる文明の恩恵にどっぷりと首まで浸かっていながら「わたしには環境破壊に対する責任がありません」と自己弁護するための"アリバイ工作"として機能するだけの意見ではないと、どうやったら言えるのだろうか。
 空き缶をむやみに捨てないとか、紙パックは再生原料として処理しているとかの細かい倫理を、生活の中で実践している人は多い。その働きそのものは尊いことだと思う。しかし、その努力が「そもそも缶入りの飲み物を製造させない」とか「紙パックの牛乳を流通させない」という形に結びついていかなければ、環境破壊に対して抵抗する力にはなり得ないことは明白だ。
 『創世記』は、人間が支配者であることの根拠として「"神の形"に造られている」ことを挙げている。神がこの世界を創造した存在であるとするなら、"神の形"としての人類は、この世界を神が創造した通りに保存する責任を負っているとは言えないだろうか。
 このように考えを進めるとき、「聖書に書かれていることを丸のみするのは間違いだ」という結論は、間違っているとも言い得るのである。「むしろ現代の我々が耳を傾けるべき内容が語られている」とさえ言うことができる。
 いささかクドクドと書きすぎたが、おれたちの日常を支えている常識的な「信念」というものが、本当はとても根拠が薄弱で、いつでも崩れ去ってしまうくらい脆いものだ、ということを考えて欲しかったのだ。
 よく、「わたしはマインドコントロールの被害者だった」という告白や訴えをする人に対して、「自分の信念でしたことをそんな風に言い訳するのは、責任転嫁だ」という批判がされる(実に中学生がこう語っている実例を、おれは知っている)。同様に「霊感商法」の被害者にさせられた人々に対しても、「そんな怪しげなものに何百万円もつぎ込むなんて、幾らなんでも軽率すぎる」という批判がされる(これは、新聞への投書などでよく見られた意見だった)。
 確かに、そう判断せざるを得ないケースもある、ということは認めなければならない。おれ自身のケースに限って言えば、おれは明らかに「勉強不足」だったし、それ以上に「世間知らず」過ぎた。自分の直感よりも他人の意見を信頼してしまう「お人よし」だったし、「全くの善意から悪事を働く者もいる」という可能性を考える想像力があまりにも貧困だった。そうした指摘には、反論の余地がない。
 しかし、と敢えて言う。「それは、おれだけがそうだったのか? あなたはそうではないと言えるのか? 言えるとしたら、その根拠はどこにあるのか?」
 「常識」は、多くの場合"生活の知恵"の蓄積だ。耳を傾けるべき内容も、数多く含まれている。だが同時に、「常識」は飽くまで"他人の「信念」"でしかない。その根拠は限りなく薄く、脆い。その意味においては、"自分"に対して誤って機能する可能性すらも含んでいると考えるべきだ。
 このおれが、いい例だ。"他人の「信念」"を無条件に受け入れた結果、おれは取り返しのつかない被害を受け、また人に与えてしまった。おれは"他人"を無条件に信頼しすぎていた。"他人"の中には、自分に害を与える者も存在する、という事実に、もっと敏感であるべきだった。
 確かに「常識」には、「人を見たら泥棒と思え」という知恵が示唆されている。その限りにおいて、確かにおれは「常識」を知らな過ぎた、と言い得る。
 だが同時に、「常識」は「渡る世間に鬼はない」とも言っていなかっただろうか。「子どもには愛を教えよう」と勧めてはいなかっただろうか。
 おれは、おれの失敗の原因が、おれだけにあるとは、どうしても思えない。おれも確かに無防備だった。だが、無防備であることは「悪いこと」なのか。
 こういう洞察に辿りつくまでに、おれはT協会を脱会してから何年もかかってしまった。少なくとも、「三ヶ月間」に参加するために家出して合宿所を目指していたおれには、考えも及ばない領域のことだった。
 合宿所に辿りついたおれを、仲間たちは「お帰りなさい」と暖かく迎えてくれた。"家出"のことを語るに及び、「とても勇気のある決断をしたね」と評価してくれた。おれは心の底から「家出して、本当によかった」と考えたのだった。
 その喜びを原動力に、それからの一ヶ月間は、ひたすら友人たちに電話をかけまくった。もちろんILAのイベントに誘い込むためだった。悪意からでは、もちろん、なかった。「本当の仲間と出会って欲しい」「本当の家族と出会って欲しい」という気持ちからだった。街中で見知らぬ人に声をかける「路傍伝道」と呼ばれる活動にも積極的だった。仲間の中には、「自分でもちゃんとした信仰(信念)を持っていないのに、とても他人を勧誘することなど出来ない」と躊躇する者もいた。おれはそういう仲間に対して、自分の家出を踏まえて、「実践してこそ、信仰は育つんだ」と熱心に説得した。
 こうした活動を通じて、おれは一ヶ月の間に三人の友人たちと二人の見知らぬ人たちをILAの会員にすることに成功した。既にT協会に引き込んでいたIやSと合わせると、おれは七人の「(霊の)子持ち」になった。
 これは、あまり例を見ない"成績"だったらしい。五月が終わる頃、おれたちがいた池袋を含む「東京ブロック」の総会で、「学生部門での伝道成績が一位だった」ということで表彰されることになった。おれはそのことを、とても誇らしく感じた。「一番になる」という経験が、それまでほとんど皆無だったからだ。ただの「一番」ではない。世界のための「一番」なのだ。
 しかしその表彰式に、おれは出席することができなかった。五月の総会の直前に「キャラバン隊」への異動が決定されたからだった。表彰式には、おれの代理人が出席した(しかも後から聞かされた話では、その人物が「代理」であるという説明はされなかったらしい)。
 キャラバン隊とは、ワンボックスカーに寝泊りしながら物品を売り歩く訪問販売活動のセクションだった。「三ヶ月間」の参加途中でキャラバン隊に配属されるのは、通常はあり得ないことだ、とおれは知っていた。幹部からは「大抜擢だ」と説明された。しかしおれは、幾つかの理由でそのことを素直に喜ぶことは出来なかった。
 そもそもおれのキャラバン隊異動は、おれがT協会に引き込んだSの両親に、おれの両親がT協会に反対する団体が発行する資料を提供した、という事実が発覚して決定されたものだったのだ。池袋を統括する最高幹部のEから、「おまえは両親の反対がきついから、ちょっと北海道へ行ってほとぼりを冷ましてこい」と言葉をかけられて、おれはそのことを知ったのだった。おれの両親は、やはりおれの「家出」にショックを受けたのだろう。そして、黙って引っ込むことはせずに、出来る限りの情報収集を始めたのだ、と理解した。
 それを、「おれの身を心配してのこと」とは考えなかった。おれは飽くまでも「おれの行為の意味を理解していないから、裏切られたと恨みに思っているに違いない」と考えていた。そうでなければ、特別の「一番」に水を差すような真似をするはずがない、としか思われなかったからだった。
 そして、おれには「伝道よりも経済の方が苦手だ」という意識があった。新しいメンバーを獲得することは、おれにとって大きな喜びだったし、自分の能力に合っているとも感じられる働きだった。だが、物品の販売は全く自分には向いていない、としか思えなかった。実は既に「二十一日間」の時に、海産物の訪問販売活動を、一日だけ体験させられていたのだ。何万円にも上る"実績"を上げたメンバーもいたが、おれ自身は見事に一円の売り上げも出せなかった。いきなり知らない人の家の戸口を訪ねて「これを買ってください」と商品を差し出す行為には、とても大きな抵抗を感じたのだった。
 おれは両親のせいで、最も光栄に感じられる務めから、最も屈辱的な務めに格下げされてしまった、と考えた。
 さらに気が重かったのは、長期にわたって大学を無断欠席しなければならないことについてだった。元来の目標であった映画学科への転科には、八割以上の出席と成績が必要だった。キャラバン隊に参加すれば、出席日数が足りなくなる恐れがあったのだ。それに池袋の最高幹部Eは、以前から「芸術なんてのは、どうせヌードしかやらないんだろう」と笑いながら語るような人物だった。おれは「映画監督になってT協会に奉仕する」という可能性がEの下では成立しない、という予感を抱いていたのだった。T協会では「上司の意向は神の意志だ」という教育が徹底されている。その意見に従うだけでなく、心の中で反感を覚えること自体が神に対する罪なのだ、とおれも信じ込んでいた。だから、ひょっとしたらEの指示で大学を辞めることになったとしても、「それが神の意志なら、不満に思ってはいけない。従わなくてはいけない」と自分に言い聞かせてはいたのだ。だが、それが現実味を帯びてくると、とても残念なことに感じられる気持ちを抑えるのは難しかった。
 しかしおれは、最終的にはEの指示に従って、キャラバン隊への配属を承諾した。「承諾」という手続きは確かに存在したが、おれには事実上、他の選択肢が与えられていなかったからだ。



(書き始めは1998年3月5日 最終更新日は1999年3月31日)




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