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『竹迫牧師のキリスト教入門記』(仮) もくじ
今でも同じだと思うが、T協会における活動の最終目的は、タレントの参加などで芸能ニュースネタになることの多かった「合同結婚式」への参加である。
当時は、この合同結婚式に参加して家庭をもうけることが、人類全体の平和に直結する働きだとされていた。この合同結婚式に参加するためには、最低でも、T協会のためにフルタイムで働く「献身メンバー」として三年以上を過ごしていること・三人以上の新規メンバーを獲得すること・T協会に対して三百万円以上の経済的貢献をすること、の三点の条件を満たすことが要求された。
そこで、ある程度以上のステイタスを持たない(所属大学が「東京六大学」以上ではない)学生は、学業を中途で放棄すること、また有名企業でない所に就職している者には退職すること、などが積極的に奨励された。一ヶ月あたり一万五千円から二万円の「小遣い」をもらって、一日三〜四時間の睡眠で働く「献身メンバー」にさせられるためである。
また、路上で見知らぬ人々に声をかけて「アンケート」をとることを通じて新規メンバーを獲得する「伝道活動」や、海産物やお茶などの訪問販売を通じて資金を集める「経済活動」に、献身メンバーになる遥か前から駆り出された。更に一部の人々は、大理石の印鑑や壷などを「開運の霊石」と称して販売することで社会問題視されたいわゆる「霊感商法」にも従事させられ(おれ自身も、知人の一人に印鑑を買わせてしまった)、また別の人々は特定の代議士たちの選挙運動に協力する政治活動に従事させられていた。
早朝と深夜の一日二回、その地域の全メンバーが集結して、お互いの「実績」を報告し合ったが、その都度スローガンとして繰り返されたのは、日本全国のメンバーによる収益が「月間一〇〇億円」を達成するという目標だった(この目標は、「TV一〇〇」という隠語で表された。そして、達成された直後に「オレンジ三〇〇」に変更された)。
とにかく、いったんT協会に取り込まれた者のほとんどは、ただちに家出し、学校を中退したり職業を放棄することが求められたのである。
そのためにおれたちは、最初は短期間の、そして次第に長期化して行く各種の合宿生活に連続して参加するよう誘導されたのだった。最初は二日間の合宿。次いで十二日間に渡る夜間のスクーリング。そして四日間の合宿。続けて二一日間の合宿。それから四〇日間の合宿。さらに三ヶ月の合宿が続き、その過程で学業放棄や退職を要求され、七日間の断食を経て、晴れて「献身」させられる、というのが、通常のコースだった。
そうした流れから猶予を勝ち得ていたセクションが幾つかあった。そのひとつが、おれも所属することになった「学生部受験科」だった。そこは、高校を卒業したものの、なおも大学入学を目指して受験勉強に励んでいる「浪人」たちが配属された部署だった。T協会側にすれば、ひょっとするとその「浪人」たちの中から有名大学に進学する者が現れるかもしれない、という期待があったのだろうと思う。現役東大生をリーダーとする「学生部受験科」は、各種イベントの頭数を揃える要員とされた他にも、英訳されたT協会の経典を和訳しなおすという「勉強」をさせられることと引き換えに、「献身」まで一定の猶予を与えられたのだった。
おれが入学を目指していた日本大学芸術学部は、学科試験は英語と国語だけだったが、おれは英語が大の苦手だった。だから、この「勉強」は大いに役に立つものだった、と今でも思っている。英語の基本的な構文や「決まり文句」的な言い回しなどは、みな「学生部受験科」のリーダーだった現役東大生のDから教わったものだった。おれは、予備校の授業がヒマになるとT協会の施設へ出かけて、英語学習に関するDの個人指導を受けていた。それは、単に受験英語を学ぶだけではなく、T協会の主要な教義を学習する時間でもあったのだった。
この「学生部受験科」に所属するまでは、半年かかった。
ILAに入会したおれは、まず春のうちに二日間の合宿に参加する予定になっていた。だが、スタッフとの些細な行き違いから、三ヶ月もILA通いをボイコットして、ようやく八月になってからその合宿に参加したのだった。
「些細な行き違い」と書いたが、それは今となっては「些細な」とは言えないほど大きな行き違いだった。ある意味で、このILAや、後に正体を知ることになるT協会の本質を表すものだったからだ。
ILAに通い出してすぐに、おれは彼らとT協会の繋がりを知らないまま、特に仲が良かった二人の友人をILAの会員にしてしまっていた。ひとりは中学時代の同級生だったS。高校は違ったが、やはり入試に落ちて予備校生活をしており、彼が通う予備校とおれが通う予備校はすぐ近所にあったのだ。Sは、たちまちILAの雰囲気に引き込まれ、その活動に積極的に参加するようになった。
もうひとりは、高校になってからおれの恋人になったIだった。彼女は高校を卒業して、すぐに仲の良い先輩が入社していた地元の出版社に勤務したが、おれの勧めに素直に応じ、ILAに通い始めたのだった。じきに、自分の話をじっくり聴いてくれるILAのスタッフたちに感激して、自分から進んで通うようになった。
T協会では、先に入信していた者が別の人を仲間にした場合、両者は霊的な親子関係となる、と教えている。おれはそんなことをまるで知らないまま、SとIの「霊の親」になっていたのだった。
SもIも、なにかおれと同じような「渇き」を抱く人々だったと思う。平均よりかなり下回った身長を持つSは、それがずいぶんコンプレックスになっていた。地元の農家に生まれ、父親や兄弟に抑えつけられて育ったという自覚を持っていた。見た目にはかなりひょうきんな男なのだが、その下には誰とも分かち合えないような苦悩が隠されていた。複雑な家庭で育ったIの方も、「自分の思いは誰にも理解されない」という頑なな信念を抱え込む女だった。客観的には人並み以上の美貌を持っていたにもかかわらず、なぜか自分は醜いと信じ込んでおり(これは単なる謙遜の域を越えた妄執になっていた)、暗い顔つきをしていることの方が多かった。おれはおれで、始終「霊現象」に怯えており、外斜視を気にしてまともに他人の顔を見ることが出来ず、いつも人の顔色を気にしながらうつむき加減で空想をめぐらし、話すことと言えばアニメのことばかり、というような奴だった。三人は、出会うことを必要とするような共通する苦しみを抱えていたのだと思う。
ILAのスタッフたちは、そのようなおれたち三人を上手に解きほぐしてくれた。おれたち三人は、三人とも快活になり、思ったこと・感じたことを素直に表現できるようになっていった。
ゴールデン・ウィークに行われる二日間の合宿には、三人が揃って参加する予定になっていた。おれたちは、それを楽しみにしていたのだ。だが、ILAのスタッフたちは、表面上それを歓迎するそぶりを見せていたが、本当は三人をばらばらにするつもりだったようだ。というのは、この合宿で教え込まれる内容は、客観的な立場からすればやすやすと論破できるような内容しか持っておらず、知り合い同士が同時に参加することのないように配慮する必要があったからだ。初対面の人間と内面に関わる話をするのは難しいが、T協会はそういう心理を利用するために、たくさんの「サクラ」を合宿に忍び込ませる。「サクラ」は、あたかも初めて参加するようなそぶりで他の参加者に近づき、初対面の人間関係に直面して防衛的になっている心理状態を解きほぐし、もっとも教え込みの影響力が強まるように誘導するのだ。ところが、元からの知り合い同士が参加していると、「サクラ」の付け入る余地がなくなってしまう。客観視させないことで微妙にごまかしている部分も、知り合い同士の突っ込んだ対話からボロが出る危険がある。
そこでスタッフたちは、おれたち三人が同時に参加しないように、切り崩しを始めたのだった。
Sが、急に予備校のセミナーに参加することになった、と合宿参加の日程を変更した。これは、ILAのスタッフの説得によるものだと思う。おれはそれを残念に思ったが、「受験のためだから仕方がない」と単純に諦めた。そして、合宿への出発当日まで、Iとは一緒に参加できるものとばかり思っていた。だが出発の直前になって、おれだけが別室に呼ばれて「今回の参加は遠慮して欲しい」と説得されることになったのだった。
「以前に、その合宿に参加した男女が、規律を守らずに全体を混乱させたことがあった。そこで合宿の主宰団体が、今日になって知り合い同士の男女は参加させないで欲しい、と連絡してきた。Iさんは、仕事を休んで今回の参加を決めているので、いまさら参加を中止してもらうのは大変だ。君は予備校生で比較的時間が自由になるのだから、今回は参加を見送ってもらえないだろうか」というのが、説明に当たったスタッフの言い分だった。
最初は「そういうことなら仕方がない」と簡単に納得したおれだったが、話を聞いている内にだんだん腹が立ってきた。そのスタッフが、一言も謝罪しないからだった。「主宰団体からの連絡が遅かった」とか「君の家に電話したが既に出発した後だった」(しかも、後で家族に確かめたところ、そういう連絡はなかったことが判明した)とか「悪いのは迷惑をかけたカップルだ」とか、状況のせいにすることに一生懸命なだけで、二日分の荷物を詰め込んだバッグを抱えて池袋まで来てしまったおれをねぎらう言葉は、一言も発せられなかったのだ。それに「予備校生だから時間が自由になる」という言いぐさにも引っ掛かりを覚えた。おれが通っていた予備校にはゴールデンウィーク中だろうがお構いなく授業があり、内容不明の合宿に予備校を休んでまで参加することに反対の両親を説得するのは、けっこう大変なことだったのだ。
良く考えてみれば、その合宿への参加だって、最初はおれ自身かなり消極的だった。ここでサボりぐせがついてしまえば、何のために浪人しているのかがわからなくなってしまう、という危機感があった。既に意志の弱さを充分に自覚していたおれは、予備校を休んでまで合宿に参加しようとまでは考えていなかったのだ。それを説き伏せて、しきりに参加を勧めたのは、むしろILAの方だったはずではないか。
そんなわけで、おれは怒ってその場を去ってしまった。もう二度とILAには顔を出さないつもりだった。
驚いたことに、そうしたいきさつを知ったIも、合宿場所から強引に引き上げてきてしまったのだった。深夜近くなってIからの電話を受け、おれは彼女に会いに行った。聞けば、一緒に参加しているはずのおれが姿を見せないので、スタッフに事情説明を求めたのだと言う。彼女も、言い逃ればかりするスタッフの説明に釈然としないものを感じ、引き止めようとする彼らを振り切って無理やり帰ってきてしまったのだそうだ。
「もうわたしもILAには行かない」と言い始めた彼女に、おれは内心感動していた。けれど、ILAに通い出して見違えるように表情が明るくなって行ったIの姿を思い起こし、「君はまたILAに通った方がいい。君には必要な勉強だと思う」と説得した。かなり長い時間話し合って、彼女は渋々同意した。
後から考えれば、これが今でも悔やまれてならない出来事だった。これがおれの、後にも先にも殆ど例がない大変な間抜けをやらかした瞬間だった。
それきりにしておけば、おれたちはT協会に関わって人生を狂わせる必要などなかったはずなのだ。おれやIが直感した「不愉快さ」に、もっと忠実であるべきだった。
やがてIが、順調に二日間の合宿・十二日間のスクーリング・四日間の合宿とプログラムをこなし、そのあたりから何かにとり憑かれたように、おれにILAへの復帰を勧め始めた。別日程でそれらに参加したSも、「あそこは凄いぞ」と興奮して喋るようになった。
二人とも、大きく変化していた。以前のおれたちに共通していた自信のなさは影を潜め、かわりに誇り高い使命感のような雰囲気を漂わせ始めていた。時折遠い目をして考え込みながら、しかしおおむね指導者のような説得口調で熱っぽく語るようになった。
何が起こっているのだろうか? おれは不思議に思いながら、同時に、一種の透明感さえ感じられる彼らの姿に、うらやましさを覚え始めてもいた。どんどん変化して行く彼らに比べ、おれ自身は相変わらずコンプレックスの塊であり、受験勉強にも目に見える成果は表れず、どんどん将来を悲観的に考え始めていたからだ。
半ば彼らに引きずられるようにして、おれはILAに再び通うようになっていた。スタッフたちは、最初は驚いたようだが、やがて「今度は手放すまい」という決意を込めて向き合ってくれるようになった。おれは、もう一度ビデオを最初から観返して、予備校が夏休みの間に、二日間の合宿・十二日間のスクーリング・四日間の合宿と、一通りのプログラムをこなす計画を立て、それを実行した。
そうして当初の予定から三ヶ月遅れて、ようやくおれは二日間の合宿に参加したのだった。
この合宿を一言で言い表すとしたら、「子どもに帰る」が一番ふさわしい。参加者もスタッフも、絶えずにこにこ笑っている。そして「自分がいかに愛されてきたか」を思い返すための、様々なミニゲームやワークショップを体験する。その都度組み替えられるペアで、制限時間内にお互いを誉め続けたり、両親の美点を披露する。長所という長所を挙げて自己紹介し、それを聞く全員が熱烈な拍手をもって迎える。参加者たちは、ひたすらいい気分にさせられる。何も考えずに明日を迎えれば良かった子ども時代に、束の間もどることが出来たプログラムだった。
ミニゲームやワークショップの合間に、キリスト教の出版社が出している歌集を使って、時には踊りを混ぜながら皆で歌う。たいてい、「神があなたを愛している」という内容のゴスペルフォークだ。そういう歌を、それまでおれは知らなかったが、それは殆どの参加者たちもそうだった。それでも、心の底から喜びがこみ上げ、ときにはしんみりと昔を思い出し、また将来への祈りを共に合わせたような気分にさせる効果があった。
現在でも、同じ歌集を使って行われるキリスト教の集会に出ることがある。断じて言うが、歌集そのものや、それを好んで歌うクリスチャンたちには、何の責任もない。言わば、T協会はこの歌集を「悪用している」に過ぎないからだ。だが、そういう場に居合わせることになると、おれはいつもこの「二日間」を思い出してしまうのだ。「おれは、この歌でT協会に引き込まれた」という思いに駆られてしまうのだ。だから今でも、ギター片手にゴスペルソングを歌う時間が始まると、おれは居たたまれなくなって退散してしまう。腕時計を何度も確認しながら、ひたすらタバコを灰にする作業をこなすことになってしまうのだ。
現在でも影響を引きずるほどに、この合宿から受けたインパクトは大きなものだった。自分の人生における苦悩と「神」の存在とを結びつけて考えるのが、初めての体験だったのだから。
それまでも、神の実在については、考えたことがないでもなかった。ひとつは、自分の運命を呪うため。それから、それに派生する形で、映画を作るテーマについて考えるため。そして、目の前に現れる「宗教者」たちを差別的に批判するためだった。
もっとも、それぞれについて、そんなに深く考えていたわけでもない。「自分の運命を呪う」と言ってみたところで、それは誰にともなく呟く「愚痴」の域を出るものではなかった。「映画のテーマ」にしてみても、当時好んで読んでいたSF小説の大半が「神」を詐称する独裁者との戦いを描いたものだったのに影響された、ということでしかない。そして「目の前に現れる宗教者たち」にしても、たとえば、聖書を片手に突然押しかけてきて一方的に喋り続ける子連れのおばさんだとか、駅前で「あなたのために三分間お祈りさせてください」と言い寄ってくる若い男女だとか、そういう程度の人々ばかりだった。つまり、「宗教」だとか「神の実在」だとか、そういうことについては殆ど考えたことがなかった、と言っても構わない程度に考えていたに過ぎない。
「下手の考え休むに似たり」と言うが、まさしくその言葉がぴったり当てはまると思う。「考えた」という記憶は残っているが、その中身は何もない、というわけだ。
だが、この二日間の合宿で直面させられたのは、単に神があるとかないとかいう次元を超えたメッセージだったのだ。おれは予期しないまま、「すべての苦難には意味がある」というテーマに直面させられたのだった。
それは、神と出会うための、苦難。
実は、この合宿に出る直前、おれはILAで「歴史的同時性」というタイトルのビデオを見たばかりだった。「十五本のビデオ」というのは、どれも黒板の前に立った「講師」による二時間前後の「講義」を録画したものだったが、見た目の地味さ通り、お世辞にも楽しいと言えるシロモノではなかった。
「講義」は、最初のうちは聖書の『創世記』解釈に関するものがほとんどで、聖書そのものを初めて読むおれには「へー、聖書にはそういうことが書いてあるのかぁ」という単純な印象しか与えなかったものだ。それに「聖書に隠された真理を科学の力で解読する」という方法論は、それまでにもたくさんのSF小説で使われていたやり方であって、それに慣れていたおれにはあまり新鮮味がなかった。他にも「霊界について」だとか「悪魔について」だとか、タイトルだけならなかなかに興味を惹かれるものもあったが、それらにしても一体何を根拠にして言えることなのかが良く分からなかった。高校や予備校での退屈な授業に出席しているのと同じように、ひたすら居眠りをして過ごしてしまった時もある。
だが、その「歴史的同時性」というビデオだけは、違った。驚きに目を見張り、眠気などどこかへ蒸発してしまった。とても興奮して、時間がたつのをすっかり忘れた。
人類の始祖として『創世記』に記されるアダムとエバから、現代の我々に至るまでの歴史を一本の数直線に表して考える。ある特定のルールに従って、その数直線を三分割する。三つに分けた数直線を縦に並べてみる。すると、歴史というものが特定の法則に従って動いているということが、突然明瞭になるのだ。歴史は、三〇〇年とか四〇〇年とかの単位で動いているのであり、ある根本的な問題が解決されない限りは、同じ所をぐるぐるまわるだけで、決して先へ進むことは出来ないのだ、というのが「歴史的同時性」の主な内容だった。
そして「講師」は、「二〇世紀も終わろうとする現代、今こそが、歴史を清算しうるチャンスの時代なのです」と結論を下した。
このビデオを観て、それまでの学校生活で退屈な思いをしながら習ってきたうろ覚えの歴史的事件の数々が、見事にひとつの「意味」をなすものとして再構成されてしまったことに、本当に驚いてしまった。そして、「自分」という存在が、ちゃんとそうした歴史と繋がっているんだ、ということを発見して、二重に驚かされてしまったのだ。
それまで、「自分」というものが歴史の最先端に位置する存在だ、ということなど、考えたこともなかった。
良く考えてみれば当たり前のことなのだけれど、「宗教改革」だの「産業革命」だの「第一次世界大戦」だのという歴史的なトップニュースばかりが「歴史」なのではない。時間順に従って歴史的な事件を並べたに過ぎないものが「歴史」なのだから、それらはいつでも今を生きている「自分」に繋がっている出来事のはずなのだ。ところがおれは、そういう「歴史」は、今を生きている自分とは何の関係もないものだ、と思い込んできたのだった。
それは、「自分は、ブッダだとかナポレオンだとかエジソンだとかの歴史的な超有名人たちと、決して肩を並べることなどないのだろう」というような、漠然とした疎外感でもあった。そしてその疎外感は、たとえば体育だとかその他の科目だとかで人並みの成績を達成することができないでいる、というおれ自身の「日常感覚」とも繋がっていた。
おれは、深いところでは「なぜ自分が生きているのか」「なぜ生きていかなければならないのか」ということの答えを、まるで見つけられないでいたのだ。別に偉い人や有名人の仲間入りをすることだけを、ことさら求めていたわけではない。ただ、そういう人たちに一歩でも近づくことが必要だ、とは考えていた。少しでも偉さや立派さと呼べるものを身につけなければならない、どれだけそういうものを身につけることが出来るかという競争の中を生きているのだから、と漠然と信じ込んでいたのだ。そうでなければ、あれほど学校で「超有名人」たちについて教えられることの説明がつかなかった。そうでなければ、あれほどテレビで「超有名人」たちについて繰り返し放映されることの説明がつかなかった。
そして、ここが肝心な点だが、「おれは、決してあの人々のようになることはできないだろう」という、漠然とした敗北感をいつも感じ続けていたのだ。大していい成績をとっていたわけではないし、運動能力や人柄で誉められたこともあまりない。何かの出来事で脚光を浴びるのは、いつもおれではない。誰かから注目されるのは、決しておれではない。これは、将来の予感と言うばかりではなくて、むしろ日常における数々の体験そのものが裏付けとなって生じた感覚だった。
今でも、教室の片隅でマンガばっかり描いている目立たない奴、というのはどこにでもいると思う。成績が優秀なわけでもスポーツマンでもない。何かの功績で誉められることなどなく、何かのグループに加わったところで重要な働きをするわけでもない。大して笑える冗談を飛ばすわけでも、人を驚かせるような特技を持っているわけでもない。
おれは、主観的にも客観的にも、そういう存在だった。そしてそういう存在は、たいていの場合「歴史の記録」からは無視されるものだ。
『ドラえもん』というマンガがあるが、もし主人公の「のび太くん」のところに「ドラえもん」が現れなかったとしたら、どうなるだろうか。何の取り柄もないばかりか、むしろ「何事についても平均以下」という自己評価を持つ「のび太くん」は、やっぱりイジイジと敗北感や疎外感に苛まれながら、隠れるようにして生きていく他ないのではないだろうか。そんな「のび太くん」なのに、あらゆることについて万能な「ドラえもん」が味方するからこそ、あれはドラマになる。
そして、おれを含む大多数の「のび太くん」たちのところに、「ドラえもん」は決して現れない。ドラマになりようがないのが、おれたちの現実なのだ。
だが、そんなおれにも、この世に存在する「意味」がある。この時代に生まれてきた者たちには、歴史を転換させるという義務が負わされており、それが充分達成できる時代的なチャンスが与えられている。
そういうメッセージに、おれは強烈に撃たれてしまった。
おれも、ドラマの中に置かれているんだ。おれにも、生きている「意味」があるんだ。
今まで遠いものだと思っていた「超有名人」たちが、急にとなりに引っ越してきたようなものだった。
本当は、まじめに考えようとしたら、歴史と言うものは決して一本の数直線で表すことなどできはしない。だって、一方では誰もが記録に残すような「世界大戦」があったとしても、他方では「子どもがつまづいて転んだ」とか、別のところでは「稀少生物が交尾していた」とか、「ある家のお手伝いさんがお皿を割って叱られた」とか、世界中ではそういう「あらゆること」(そして、殆どの場合は「つまらないこと」)が同時進行で起こっているものなのだ。「つまらないこと」だからといって、無視していい理由にはならない。それらも立派な「歴史的事実」のはずだからだ。それらを全て網羅しようとしたら、「数直線」は限りなくたくさん用意されなければならなくなる。
そこで、公共性の低い順に片っ端から無視することで、ようやく数直線を用いて歴史を記述する「年表」が可能になるのである。一言で「公共性」と片付けてしまったが、どんな基準に従って「取り上げる事実」と「無視する事実」を選り分けるか、相当に厳密な定義が必要になるだろう。このことをまじめに考えたら、時には定義すらできずに、たくさんの数直線を立体的に表現する他なくなるのではないか。
そうやって可能になる「数直線」だが、そこに書きこむべきデータだって、本当に正確なものばかりが集められるとは限らないのだ。「古代史」といわれるものの大半は、それを書いた人に都合がいいように作りかえられた怪しげな「歴史」でしかない事がほとんどなのだという。大きな事件についてでさえ、それを記録する人によっては、いくらでも違った書き方があり得る。そして、記録者が無視してしまえば永久に誰からも忘れ去られてしまうような細々した「歴史的事実」の方が、むしろ圧倒的に多いはずなのだ。
だから、歴史研究とは、山積みにされたそういう怪しげな「歴史」の、どこらへんが事実でどこらへんがウソなのかを探求する作業であり、無視されたり忘れ去れてしまったりしたたくさんの「事実」を復元する作業でもあるのだ。
こういう風に考えてみれば、おれがびっくりしてしまった「歴史的同時性」は、歴史を数直線化するという考え方自体に相当の無理があった、と言わなければならないだろう。あるいは、数直線化された歴史観そのものが、既に歴史の歪曲であり、ごまかしなのだ、とも言える。
当時のおれは、そんなことはぜんぜん思いつきもしなかった。もちろん、提示された内容を「そうですか」とばかりに全部受け入れてしまうような絶対的な知識不足(あんまり好きな言葉ではないが、敢えて言ってみれば「勉強不足」)が大きな原因だったことは認めなくてはいけない。おれは「歴史」という教科も、とても苦手だったし、成績も悪かったのだ。
だが実は、それ以前に考えなくてはならないことがある、とおれは思っている。それは、そもそもおれたちが受けている「歴史教育」そのものが、こうした"無理"を強引に重ねた「歴史を数直線化する」という方法によって組み立てられている、ということだ。
その「数直線」からは、おれのような平均以下の一般人は、ひとつの理由も明らかにされないままに、ことごとく無視されることになる。まるで、おれたちが存在する「意味」がないかのように。なお悪いことに、おれたち自身も、それを「当然のこと」として受け入れてしまう。
おれたちも既に、本当は「歴史」の一部なのだ。誰が記録にとどめようと、あるいは誰が無視しようと、おれたちは「歴史」の中に、事実として存在しているのだ。
「数直線」として考える歴史観は、そのことを忘れさせようとするか、あるいは逆に、過剰に意味付けてしまう。
このことは、学校教育のあり方を巡ってもっと議論されるべきではないか、とおれは考えるようになった。
今から思えば、「歴史的同時性」のビデオから受けた衝撃は、「歴史認識」にまつわるものだったと言い換える事ができる。自分が「歴史」の一部であること。「歴史」に主体的に関わっていけるはずであること。「歴史」に責任的であるべきこと。そうした「歴史認識」が、突然与えられたのだった。
学校では、「歴史的事実」は教えられたかもしれないが、どれを取り上げてどれを無視するか、と言った「歴史認識」については学んだ記憶がない。たぶん、教えてはならないことにされているのだ。「歴史認識」を持つということは、特定の「信念」に基づいて歴史に向き合うということだ。しかし学校というところは、「信念」を教える場ではなくて「知識」を教える場であるとされている。
「信念」まで教え込む学校があったら、それはそれで危険なことであるとは言える。「知識を学習する」という学校の存在目的から逸れてしまう危険と、絶えず向き合うことになるからだ。
だがそれが、「信念」について無色であればいいという理由にはならない、とも思うのだ。特定の歴史的事実を取り上げる、という態度自体が、なにがしかの「信念」に基づかなければ不可能な作業だからだ。
せめて、「こういう信念に基づいたら、こういう切り取り方になるだろう」というような、「信念」の見取り図を提示することくらいは、必要なのではないだろうか。必要というより、おれたちが本当に求めているのは、こまごまとした「歴史的事実」の知識ではなく、そうした「信念」を手に入れることなのではないだろうか。
話がややこしくなってしまったが、おれがこう考えるようになったのは、非常勤ながら高校の教師として働くようになってからのことだった。
現在のおれが高校生たちに教えているのは「聖書」という科目だ。キリスト教主義高校という、ある意味で特殊な「私立高校」ならではの科目だが、いくら牧師だとは言え、まさかあれほどの劣等性だった自分が学校の教師をしている、という事実に一番驚いているのも、実はおれ自身なのだった(このあたりのことは、もう少し後の方で書こうと思っている)。
学校の教師なんて、職業としては牧師以上に現実感がなかったおれだが、いきなり教壇に立つことになって以来、ずっと手探りで授業のあり方を模索してきた。今でも、生徒の反応を見ながら毎回授業の進め方を考え直す必要に迫られ続けているのが実情だ(このこと自体は、決して自慢できることではない)。そうした働きの中で興味を持ったのは、「これが歴史的事実です」という「知識」を語ることよりも、「わたしはこういう信念に基づいて、この歴史的事実を重要だと判断します」という「信念」を語るときの方が、ずっと生徒たちの関心が高まるという現象だった。
彼らと同じ年齢だった頃の自分を振り返るとき、本当はみんな、「知識」よりも「信念」を求めているのではないか、と思わずにはいられないのだ。そして必要とされているのは、「信念」そのものを植え付けることよりも、どのように「信念」を持ったら良いのか、というモデルを提示することなのではないか、と感じられて仕方がないのだ。
実は、「知識」なしに「信念」は成り立たないものだが、「信念」のない「知識」というものにも、意味は見つけにくい。おれたちは、「右か、左か」という決断を迫られたとき、確信に基づき胸を張って一方を選ぶことのできる「自信」が欲しいのだ。それは「知識」だけでは、絶対に培われないものだ。その「自信」(プライドと言い換えても構わない)は、人生の先輩である「大人」からしか、学ぶことができない種類のものではないか。そして、おれたちが親の次に出会う「大人」といえば、それは学校の教師たちなのだ。
学校というものが、無味乾燥の牢獄にたとえられるようになって久しい。特に今日のように、学歴がそれほどのステイタスとして機能しなくなっている時代には、学業というものが保険や年金以上の役に立つものとは、どうしても思えなくなっている。
学校のことばかりではない。おれたちが目撃する「大人」たちには、明確な「信念」があるとはどうしても思えない場面が多すぎるのだ。おれたちが子どもの頃から「理想」として叩き込まれてきた正義だとか平和だとか人権だとかは、もはやテレビやマンガの中にしか存在していない。それらの「理想」を捨てることが成長なのだ、とあからさまに語る「大人」さえいる。そういう「大人」に限って、有名大学卒業だったりする「現実」がある。
こうした時代に育つおれたちにとって、「信念」の次元では無色であろうとする学校が、自分の将来に役立つ場所だとは信じられないのだ。文字として定着した「知識」よりも、それをどういう「信念」で自分のものにするか、という問題の方が、ずっと大切なことに感じられるのだ。
それが示されない学校生活は、学習という名の"作業"を繰り返すだけの苦行の期間としか感じられないように思っている。
さて、「歴史的同時性」で驚かされたおれが、次いで参加した二日間の合宿で示されたのが、「歴史には、神が関わっている」というメッセージだった。
つまり、おれがこれまで漠然と抱えてきた疎外感だとか敗北感だとかいうものが、実は「歴史」に関わるために神から用意された「必然」だったのだ、と知らされたわけだった。
普通だったら、いきなり「あなたの歴史には神が働いている」なんてことを言われても、信じる気にはならなかっただろう。だがその時のおれは「自分が歴史の延長線上に立っている」という発見をしたばかりだったし、IやSに起こっている劇的な変化を目撃している最中だった。こういう言葉で整理していたわけではないが、神が存在するという「信念」を初めて与えられた、と言っていい。それまで、明確な「信念」を示す大人と出会ったという体験を持っていなかったおれには、新鮮な衝撃だった。
おれは、神の存在をやすやすと受け入れた。
それは、本当に喜ばしい発見だった、と告白しておく。自分の存在意義を、初めて手にした瞬間だったからだ。
予備校が夏休みの間に、おれはたて続けに十二日間のスクーリングと四日間の合宿にも参加した。十二日間のスクーリングには、おれと他に二名の参加者が「特別に」九日間に短縮してもらって出席した。「他の人には、こんな措置はとられないのですよ」と説明された時のおれは、とても誇らしい気分だった。スクーリングには予備校での授業が終わってから参加するのだし、帰宅は毎日終電車に乗ることになった。結構ハードな生活になったが、それはいかにも「選ばれて勉強している」という自覚を深める効果しか持たなかった。
しかしスクーリングでの学習内容は、それほど魅力的なものが感じられないものばかりだった、と言って良い。というのは、それまでビデオによる講義で学んできたことを、再び生の「講師」から学びなおす、という程度のものでしかなかったからだ。おれは、ついついノートの端っこに「講師」の似顔絵を描いて、注意を受けたりしていた。
だが、そのスクーリングの終わりの方になって、とうとうMという人物を紹介するビデオを見せられた。
Mは韓国籍の老人で、航空会社からの賄賂を受け取って有罪となった元総理大臣を思わせる風貌の持ち主だった。ビデオには、「このMこそが、現代のメシアだ!」という興奮気味のナレーションが入っていた。
「メシア」というのは、元来は「油を注がれた者」という意味のヘブライ語だ。ある人物を選んで、神の名において重要な使命を託す際に、そのアタマに油を注ぐ儀式を行ったことに由来する言葉なのだと言う。後には、民族的規模の苦難から人々を解放するために神から派遣される「救世主」という意味で用いられるようになり、新約聖書が書かれた時代には「キリスト」というギリシャ語に翻訳されることになった。
つまりそのビデオは、「このMこそが、世界を破滅から救う第二のキリストだ」と証言していたのである。
このビデオの公開と共に、「実は、ILAはT協会の下部組織なのだ」という事実が、初めて参加者全員に告知された。
もちろん、参加者たちの間には衝撃が走った。中には、かねてからILAの「宗教臭さ」を問題にして、その都度「ここは宗教とは何の関係もありません」と説明されてきた者が数人いた。そして、T協会についての悪評を予め知っている者も、少なからずいたのだ。そういう人々は、皆一様に「騙された」という表情をしていたし、そうでない人々も、いきなり「実は宗教団体なのでした」という説明を受けて戸惑っているばかりだった。
そういう状況の中で、おれは独り落ち着いていた。というのは、T協会やM教祖のことについて、おれはIやSから「絶対に秘密だ」と断られつつ、予め教えられていたからだった。おれは既に、このビデオを見せられる数日前に「どうして、宗教団体なら宗教団体だと始めから言わないのか」という抗議を済ませていたし、それについての説明を受けてさえいたのだった。
むしろその時のおれは、おれより年上の参加者たちが慌てふためくような内容を、予め既に承知していた、という優越感の方を強く感じていた。それまでの人生では味わったことのなかった快感だった。
だから、促されることもないまま自発的に「ここがT協会だと知っていたら、自分はこんなに素晴らしい体験をすることができなかった。スタッフたちは、とても良心的に自分を導いてくれたと思う」と証言した。それは、おれがスタッフから受けた説得の言葉をそのまま繰り返したに過ぎないものだったが、何人かの参加者はそれを聞いて納得した。執拗に文句をつけていた人々も、やがて全体的な雰囲気に呑まれて、抗議することを諦めてしまった。
その後の彼らの行方については、殆ど全員が追跡不能である。後にT協会から離れた者も多いに違いないと想像するが、その保証はひとつも手に入れていないままだ。
おれは、自分から進んで、その結果について理解も想像もしないままに、「サクラ」を演じていたのだった。
おれは、自分自身を、心の底から軽蔑する。おれは、真正のバカ者である。おれは、大いなる「間抜け」である。
将来世界が滅びるとしたら、そして聖書に預言されるように「最後の審判」が行われるとしたら、おれは間違いなく「有罪」だ。
おれは、些細な優越感と引き換えに他人の人生を狂わせるという、取り返しのつかない間違いを犯したのだ。
殆ど数日の隙間も置かず、続けて四日間の合宿に参加することが要求された。会場となったのは、あの二日間の合宿が行われたのと同じ場所だったが、前回の時のような和気あいあいとした雰囲気はかけらもなかった。
ひたすら教え込まれたのは、「日本人である我々は、いかに韓国に対して未払いの負債を負っているか」ということに尽きる。
その合宿で行われた教育は、殆どが「歴史的事実」に立脚したものだった。大日本帝国は朝鮮半島に対し、三十六年間に渡って植民地支配を行った。その間、朝鮮人民は朝鮮語を剥奪された上に日本語の使用を強制された。女たちは日本帝国軍の「慰安婦」にさせられた。男たちは日本帝国軍の奴隷的労働者として、時には兵士として危険な最前線にさえ送り込まれた。従わない者は次々に虐殺された。当時を知る朝鮮人たちは、「日本人は吸血鬼だ」と子孫たちに教え続けており、そのことを知らないのは、当の我々日本人青年だけだ。我々は、吸血鬼の子孫なのだ。救世主Mが韓国人なのは、我々日本人にとって幸いだ。我々はMに帰依することで、同時に祖国の罪をあがなうことが出来るのだ。
この合宿は、始めから終わりまで異様な緊張感に覆われたまま進行した。途中で「わたしは罪人だ!」と号泣しながら告白する者が続出した(後で知ったことだったが、その皮切りになるのは大抵が「サクラ」たちだった)。四日目を終える頃には「何が何でもT協会員として献身しなければならない」と決意することが、暗黙のうちに全体の目標とされた。
本当は、「日本が三十六年にもわたって朝鮮人民を抑圧した」という事実が、「だから日本の若者は朝鮮人であるMに帰依しなければならない」という「真実」を指し示す証拠にはならないはずだ。仮に、朝鮮人民に対して贖罪を求める義務が日本人にあるのは事実だとしても、それがT協会員とし献身してM教祖に奴隷的奉仕を献げなければならない、ということに直結するはずはない。
だがこの合宿は、それ以外の結論を許さないように、周到に準備されたものだった。畳み掛けるように語り続けられる「講義」・スタッフを先頭に献げられる涙ながらの祈り・上映される衝撃的なビデオ、そして、プログラムに挟まれたミニゲームやフォークソングのひとつひとつに至るまでが、用意された結論に参加者を一人残らず導くために考案され、準備され、実演されたのだった。
おれもまた、他の参加者たちの殆どがそうだったように、「日帝三十六年」の歴史を断片的にしか知らない青年のひとりだった。見せられる実録映像のひとつひとつが、全く初めて得る知識だった。
それにも関わらず、おれの心を占めていたのは、あのスクーリングの最後に抱いた「優越感」を維持することでしかなかった。他の参加者たちが躊躇するような決断を、おれは率先して引き受けた。決断をためらう参加者には驚きの表情を見せ、「ここで決断するほかに選択肢は存在しないのではないか」という説得的な発言を繰り返した。
ここでもおれは、自ら進んで「サクラ」になったのだ。
この合宿は、火のつけられたローソクに囲まれて行われる「献身の決意表明」をクライマックスにして終わった。
この時点で、おれが自身の判断で使える自分名義の貯金は底をついてしまった(つまり、高校卒業の身にもなって一〇万円程度の貯金しか持っていなかったのだった)。そして、予備校の夏休みが明けると同時に、「学生部受験科」への配属が決定されたのだった。
他の者たちは、殆どが連続して催される二十一日間の合宿に参加することになっていた。そこで、教祖Mに対するふさわしい「献身」のあり方を叩き込まれるのだ。
ところがおれは(「おれだけは」というべきかもしれない)、その「二十一日間」への参加に猶予を与えられ、「学生部受験科」に配属されたのだった。
その時、奇妙なことに気づいた。「四日間」を終えたおれたちのための歓迎パーティは、正面に「二十一日間合宿への参加 おめでとう!」と、大きく書かれた会場で行なわれたのである。「学生部受験科」に配属されるので「二十一日」には参加しないことが決まっていたおれには、奇妙な光景と感じられた。
思い返せば、最初からそうだったのだ。「二日間」から帰って来た時には、歓迎会の会場には「スクーリングへの参加 おめでとう」と書かれていたし、「スクーリング」の最終日には「四日間合宿への参加 おめでとう」と書かれていた。最初から次のステップに進むつもりでいたおれには全く違和感がなかったのだが、それらは次のプログラムへの参加をためらう者たちをも、なしくずしに進ませていくための仕掛けだったのだ。
その仕掛けを、この時のおれは見抜いたのだった。
それでも、その時のおれは、既に「アンフェアだ」とは感じなくなっていた。大学入学の暁には、遅れ馳せながら、おれもそれに参加する、と決意していたからだ。「予め知っていたら、ここに来ることが出来ましたか?」というスタッフたちの説得を、真に受けていたからでもあった。