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『竹迫牧師のキリスト教入門記』(仮)  もくじ


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具体的な「事件」


 教会に通いはじめたのは、一九才の時だ。幼稚園はカトリックだったし、小学生のときも近所の教会の「日曜学校」に通っていたことがあったのだが、キリスト教というものが宗教だと意識しながら通ったのは、このときが初めてだった。
 その時のおれは、T協会という、いわゆるカルト団体から脱会したばかりだった。それまで堅く信じていたこと、誰かを傷つけてでも守り抜かなければならないと決めていたことが、ガラガラと崩れ去る体験をした。それだけでなく、先方からたくさんの脅迫電話や実際の暴行を受けたりもしていたので、恐怖感のとりこになってしまっていた。何を見ても感動というものが湧かず、にこやかに近づいて来る人は全て疑わしく思われ、「おれはこの先どうなってしまうのだろう」という不安で一杯だった。恐怖と緊張で眠れない夜が続いたし、時にはいつでも逃げ出せるように靴を履いたまま布団に潜りこんでいたこともある。外出の時には、鉄板を仕込んだバッグとサバイバルナイフとを抱えて「尾行する者がいないか」と始終おびえており、電話が鳴るたびに跳びあがり、教え込まれていた「霊界のたたり」のどこがウソなのかを考え続ける生活だった。
 そんな状態のおれにとって、唯一信頼できたのが、おれと同じ苦しみを背負っているT協会からの「脱会者」たちだった。自分と同じ苦しみを抱えているから、彼らとだけは以前の自分に戻って言葉を交わすことができたのだ。T協会では「聖書をもとにした」と言われる教義を叩き込まれていたが、それが全て嘘っぱちだったと知ってしまった後だったから、おれたちには「何がウソで、何が本当なのか」ということを見分ける知恵が必要だった。だから、聖書の勉強をしなければ、と考えて、自然とキリスト教の教会に集まるようになったのだった。
 でも、今思えば、おれたちは何よりも安息できる場を求めていたんだと思う。
 自分を救い出すために、親たちがどれだけ苦労したか。自分がT協会に入ったこと・そこで要求された活動に精進したおかげで、周りの人たちがどれだけ傷ついたか。それを考えると、T協会に入るまで過ごしていた以前の世界に戻る「資格」が失われているように感じられたのだった。苦しめた分、今度は孝行しなくっちゃ、という焦りが湧いて来る。でも、現実のおれは、T協会の中にいる時ほどのスーパーマンではなくなっているのだ。「おれの一挙手一投足に、世界の命運がかかっている」という緊張からは解放されたが、同時に「自分が存在していることの確かな手ざわり」も失われていたのだった。
 おれは、いったい家族に対してなにをしてあげたらいいのだろうか? 何をすれば、家族を苦しめた事への償いになるのだろうか? 決められた労働を消化すれば、それが自動的に「世界のための働き」ということにされたT協会から離れてみると、おれはあまりにも無力な「おとな子ども」でしかなかった。
 そして、家族は腫れ物に触るように、丁寧に付き合ってくれる。
 「そんなことをしてもらう権利はない」と感じ続けていた。だから、家族と向き合っているのは、とても息苦しかった。「息苦しい」と感じている自分を見つ直す余裕すら、なかった。
 T協会に入る前からの友人たちとも、以前のような関係には戻らなかった。T協会の教える「救い」を頭から信じていたおれは、彼らをT協会に引き込むことだけが友情の証しだと考え、そのように行動した。そして、「T協会に入ることで生まれ変わったあなたは、以前のような堕落した関係にとどまってはいけない」と教えられるままに、友人たちとの関係を清算したつもりになっていた。T協会から離れてしまえば、おれがやったことというのは「取り返しのつかない加害」に過ぎなかったのだ。そんなおれが、元の友人関係を取り戻すことはできっこなかった。なにしろ、一旦は「捨ててしまった」関係だったからだ。
 一浪して入った大学の生活もそうだった。おれにもいろいろ夢があって入った学校だったが、「世界の救いのために、自分の大切なものを神様に献げなさい」と勧められるまま、おれは大学生活を捨てたつもりになっていた。そして、「世界のために、おれは一番たいせつなものを捨てたのだ」という喜びの中に生きていたつもりになっていたのだった。
 だから、その大学に今さら戻った所で、もう以前のような情熱を取り戻すことはできなくなっていた。
 バイトにも身が入らない。雑談以上のことを語り合える話し相手もいない。家族に隠れるようにして、ひとりで酒ばかり飲む日が続いていたのだった。
 おれは、ほんとうに疲れていた。
 キリスト教の教会に始終入り浸ってはいたが、それは「洗礼を受けてクリスチャンになるため」ではなく、T協会についての新しい情報はないかを探すためであり、そして「T協会の聖書理解はどこが間違っているのか」を知るためであり、何より新しく脱会した人々と出会うためだった。
 疲れ切った生活から一時的に脱出して、ひとときの安息を手に入れるためだったのだ。
 やがておれも洗礼を受けてクリスチャンになったが、それは別に「聖書の教えは正しい」と確信してのことではない。おれよりも後にT協会を脱会した女性が「洗礼を受ける」と言い出した事に動揺したのがきっかけだったし、クリスチャンになれば、もう少し聖書を深く勉強するのに便利な「神学校」に入学する資格が得られるから、ということに過ぎなかった。
 今でも時々、「洗礼を受けたきっかけを教えてください」とか「どうして牧師になろうと思ったのですか」と質問をされることがある。「なにか衝撃的な出会いがあったのでしょうね」と言われることもある。そんな時は、とても答えるのに苦労する。洗礼を受けたのは考えがあってのことではなくて、衝動的な(というより反射的な)決断の結果に過ぎなかったし、牧師になったのも、その成り行きの果てとしか言えない部分が多かったからだ。
 そもそも聖書を勉強しようと考え始めたのも、「T協会の教えはここが間違っている」とはっきり言えるようになりたかったからだった。それも「T協会を辞めたことは間違いだったのではないか」という不安から解放されるためにだ。同じ不安に襲われている脱会者たちと共に、「おれたちは、もう苦しまなくていい!」と心の底から納得して喜びたかっただけなのだ。
 だから、「キリストの救い」なんてものには、正直に言えばまるで興味がなかった。おれが興味を持っていたのは、というより、腹から手が出るほど求めていたのは、おれが信じたT協会の教えが、本当にみんなが言う通りに一から十まで間違いだらけだった、という明確な証拠だ。もしT協会が本当に間違っているとしたら、あそこで感じた「生きる喜び」とは何だったのかを見極める材料を手に入れることだ。それだけだったのだ。
 神学校に入るためには、おれの英語の成績はいかにも足りなかった。キリスト教の世界での「常識」も全然持っていなかった。だから、洗礼を受けたのを機に、それまで通っていた大学を中退し、バイトをしながらキリスト教についていろいろ勉強する生活に入った。
 その間も、脱会者たちとの付き合いは続けていた。新しい脱会者は続々と現われていたし、彼らの苦悩に以前からの脱会者が「先輩」として関る時、両者にとっての癒しが起こるのを、体験的に知っていたからだ。その様子を目撃することは、おれ自身にとっても喜ばしい解放になったのだった。
 何しろ脱会者たちはみんな、一挙手一投足に「世界の救い」という拘束具を着せられ、まるで酒の一滴を口にすることが世界を滅ぼすのではないか、という恐れを抱かされていたのだ。たとえばディズニーランドに足を踏み入れるということが、まるで正義の歴史への反逆であるかのように怖いことだったのだ。たとえば人を好きになるということが、人類の「罪の歴史」を上塗りすることになるのではないか、と怯え切っていたのだ。
 毎週日曜日の礼拝に出席すれば、脱会者に会うことができる。お互いの無事を確認し合うことから、おれたちの一週間が始まるのだった。「霊界の祟りなんて起こらない」「世界の滅びは、おれたちのせいではない」ということを繰り返し確認し、「おれたちは生きてこの世に存在してもいいんだ!」という手応えを求めていたんだ。
 そういうおれたちのあり方が、その教会の中で密かに問題視されていたことなど、知りようがなかった。
 具体的なきっかけは、おれが脱会者のためのミニコミ誌を作って、それを配布したことだった。もちろん、何も立派なことを書いたものではない。おれたちが「いかに元気に遊んでいるか」を、写真入りでレポートしたものだった。お互いの社会復帰の姿を知ることが、おれたちにとって一番の慰めになっていたから、ボーリングだのローラースケートだので遊んでいる姿を、さらにギャグをちりばめたコメント付きで紹介したものだった。
 だが、牧師さんの「教会役員の人たちには読んでもらってもいいんじゃないか」というお勧めを拡大解釈したおれは、その日教会に集まっていた全員にそれを配ってしまったのだった。
 おれと同じ年齢の女性信徒が、それを問題にして詰め寄ってきた。「こんなものを断りもなく配ってもらっては困る」というクレームをいただいたのだが、途中で「教会は、あんたたちのような人たちが遊びに来るところではない。教会は神様を礼拝するところだ」とはっきり言われた。 
 おれを含めて、この女性にちゃんと反論した人はいなかった。確かにおれたち脱会者は教会に「遊びに」行っていたわけだし、教会の人々も「遊んでいる」おれたちを苦々しく思っていたからだ。牧師さんは、おれとの意思疎通にギャップがあったことを悟って、どちらの味方をしたものか迷っていたのだと思う。とにかく、彼女に面と向かって反論した人は、ひとりもいなかった。
 その日、おれたちは悄然として教会を去った。そして、おれ以外の脱会者は、その日を境にだれも教会には来なくなったのだった。
 このときのおれの気持ちは、今でもうまく説明できない。悲しかったのは事実だが、それ以上に怒りの方が大きかったように思う。言い返せなかった悔しさも募っていた。だけど、そんなに単純な言葉では言い表せないたくさんの「情念」が絡み合って、とても暴力的な気持ちに支配されてしまっていたのだ。
 それは、T協会を脱会するときに感じた気持ちに似ていたようにも思われる。世界が足元から崩れて行くような。大事にしていたものが、木っ端微塵に砕けて行くのを見るような。とても懐かしいものが、目の前で永遠に破壊されて行くような。
 この時の事を思い出すと、今でも胸に何かが詰まったような気持ちになる。物が言えなくなって、ちょっと力の入れ方を間違えると泣き出してしまいそうになる。
 この気持ちは、「痛み」と表現するしかない、と感じている。おれたちは、痛い思いをしているところを、更に痛めつけられてしまったんだ。
 このことがあってからしばらくして、おれはいよいよ神学校に行くことになった。脱会者が誰も来ない教会は、おれにとって何の魅力も価値もない場所になっていた。それでも教会に通い続けたのはなぜだったのか、やっぱり今でもよくわからない。洗礼を受けてクリスチャンになる、ということは、教会の維持・運営に責任を負うメンバーになる、ということだ。教会員としての義務を負っているという自覚があって、それを機械的に消化していただけだったのだと思う。もう大学は中退してしまっていたから、「いまさら引き返せない」という気持ちも強かったのかもしれない。とにかくおれは、脱会者がやってこない教会に、日曜日ごとに通い続けた。
 神学校というのは、本来は牧師になるための勉強をするところだ。それを意識していたのは確かだけれども、牧師になるという目標がそれほど明確だったわけではなかった。とにかく、聖書の勉強をして、T協会の教義が根本的に間違っているということを納得して、それを脱会者たちに伝えたい、という気持ちしか、おれの中にはなかったのだ。牧師なんてものが、まともな職業だとは思えなかったのも正直なところだ。
 そういう状態を知ってか知らずか(たぶん知らなかったのだろう)、おれのために、教会の人々が送別会をしてくれることになった。礼拝堂の前の方に座らされて、教会員たちが次々に励ましの言葉を語ってくれた。何となく居心地が悪くて、おれはひたすら小さくなっていた。別に悲壮な決意をしたわけでも、教会に身を献げる決心を固めたわけでもなかったから。だから、おれに言ってくれるにはもったいないような言葉が次々と降ってくるので、小さくなっているほかはなかったのだ。
 だが、ある教会員が、こう言った。
 「竹迫くんが神学校に行く、というのは立派な決断だ。彼がここまで成長したのも、あの文書を配布した事件のときに、教会がしっかりと指導したからだと思う。本当に良かった」
 集まっていた人たちは、一瞬沈黙したあと、拍手した。
 あまりの怒りのために、口がきけなくなっていた。目の前が真っ黒に塗りつぶされて、呼吸も止まったほどだ。
 おれが、あの時どれほど苦しんだのか、どれほどの「痛み」に翻弄されたのか、こいつらには何もわかってはいないんだ。あれが「いいこと」だったと思っているんだ。おれだけじゃなくて、あれ以来教会に寄りつかなくなった脱会者たちのことを、こいつらは誰一人として心配してなんかいないんだ。
 集まっていた人たちが、みんな異次元の生き物のように思えた。
 聖書には、怒り狂ったイエスが神殿の境内で暴れまわり、そこにあった出店の屋台をことごとくひっくり返した、というエピソードが紹介されている。キリストといえば、悲しげな顔をしておとなしく十字架にはりついている印象の方が知られているが、本当はかなり暴力的な荒々しい一面も持っているのだ。そこを読むたびに、なぜこの時のおれもそうしなかったのか、と考えさせられる。
 「しなかった」ではなくて、「できなかった」という方が正確だろう。あまりに怒りが深かったので、おれ自身がそれに飲み込まれてしまったのだった。おれは相変わらず、語るべき適切な言葉も、自分の感情をコントロールする技術も、怒りや悲しみを表現する方法も、まるで持っていなかった。客観的には、ちょっとうつむき加減で、目の前に置かれたお茶を見つめたまま黙っていただけだった。その発言に拍手する人たちの顔を眺めて、ひょっとしたらおれの気持ちの方が間違っているのではないか、と戸惑っていただけだった。
 その時からおれのアタマに鳴り響き始めたのは、わけのわからない「警報」だった。ガンガンと耳のそばで鳴り渡って、脳ミソが破裂しそうな気分になった。「もうやめてくれ!」と叫んだら、さらにボリュームが大きくなるような、始末に負えない轟音だった。
 その「警報」は、年月を経るに従って、「こんな教会ではダメだ。こうではない教会が必要だ」という言葉になった。
 牧師になる、ということを、自分の具体的な将来像として考え始めたのは、たぶんこの時が最初だったのではないだろうか。牧師になって、こうじゃない教会を作ろう。おれのような脱会者が、ちょっとでも安心できるような、そういう教会を作ろう。そういう教会が必要だ。
 啓示というものがあるのなら、まさしくこのとき鳴り響いた「警報」こそがそうだった。まだきちんとした言葉にはなっていなかったが、そういうことを考え始めたのがこの瞬間だったのだ。
 そして、そこにはこういう言葉も混じっていた。
 「こんな "おれ" ではダメだ。こうではない "おれ" が必要だ」
 こうではない "おれ" になろう。
 ならなければ、ダメだ。
 しばらくの間、そのことばかりを思い詰めるようになった。 


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