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『竹迫牧師のキリスト教入門記』(仮)  もくじ


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「カルト」入信前のおれ


 元から、内気ではあった。
 生まれついての性格だったのだろうが、それを更に増幅したのは育った環境だと考えている。とりわけ、引っ越しの多い家庭であったことに、幼い頃の嫌な記憶の大半が集中している。
 新しい友人を見つけることが、とても苦手だった。無論、どこへ行ってもしばらくすれば遊び仲間の一人に加えてはもらえるのだが、元々見知った街でさえ迷子になるほどの方向オンチだったのだ。知らない街角で、知らない人々と出会って、心が迷子にならないはずはない。
 だから、誰かから声をかけてもらうのを待っている子どもになった。
 そして、最初に声をかけてくれた人とは、たいてい仲の良い友達になったものだ。
 引っ越しが続く生活は、小学校の二年で終わった。それから後は、神学校に行くまで、埼玉県の狭山市で過ごした。それでも、新しい友達を作ることは極端に苦手なままだった。進級したり進学したりするたびに、教室の顔ぶれががらりと変わるのが耐えがたく、四月になるとあらゆることにやる気が出なくなった。だんだん、一人で遊ぶことの方が好きになった。その方が楽だったからだ。
 小学三年生の時に、左目に針が刺さるという事故にあった。何か取り返しのつかないことが起こった、と直感するほど目に見える世界が変わってしまった。だからしばらくの間、何も起こらなかったふりをした。そのために、治療が遅れたのだと思う。どんどん左目が見えなくなった。しばらくして、医者に行った。外傷性白内障と診断され、一週間入院して水晶体の摘出手術を受けた。退院してからも、目を保護するために、蜂の巣状に穴があいた鉄板の眼帯をつけさせられた。たまたま通りかかった人が「丹下左膳みたいだな」とつぶやくのが聞こえ、「おれにはちゃんと両手がある」とムキになって言い返した記憶がある。
 視力検査では、コンタクトレンズを装着すれば1.0くらいの視力が出た。だが、右目と左目の視界があまりにも違った。良く晴れた日には、ものすごいまぶしさを感じて左目を開けていられなくなった。当時のコンタクトレンズはとても分厚い材質で出来ており、瞬きするたびに左側の視界ががくがくと上下に揺れ、ちょっと下を向いた拍子にレンズを落としてしまうこともしばしばあった。何度か紛失したが、そのたびに父親に連れられて新宿のレンズメーカーまで行き、高価なレンズを作りなおした。メーカーでは同じ担当者に当たったことはないが、みんなに「高いものなんだから、もうなくしちゃだめだよ。大事にするんだよ」と同じ事を言われた。当時、子どもでコンタクトレンズを使っているのは珍しかったので、同級生から「コンタクトレンズ見せて」と度々せがまれたものだった。
 そんなこんなで、すっかりコンタクトレンズがわずらわしくなってしまった。右目は普通に見えるのだから、レンズをつけなくても日常生活に支障はない。右目だけで過ごすようになった。いつのまにか立体視ができなくなっていたが、そんなことにはまるで無頓着だった。ただ、時々アタマが痛くなるのはなぜだろう、とぼんやりと考えるようになっただけだ。
 立体視ができなくなったので、球技や格闘技などのスポーツは全く苦手になっていた。もともと元気に遊ぶ子どもではなかったから、地区の子ども会でのソフトボールや体育のサッカーをやらされるまで、気づかなかったのだ。「おれはこんなに運動オンチなのか」と悲しい思いをすることが多くなった。週刊誌で『おれは鉄平』というマンガの連載が始まり、自分も剣道を習い始めた。しかし、間合いが量れないので、ちっとも上達しなかった。精進する性質でもなかったのだ。だから、剣道も小学生のうちにやめてしまった。
 中学生に入る辺りから、左目の視線が外側に開くようになった。右目はまっすぐ正面を見ているのに、左目は斜め前を見ている。左右の目の焦点が合っていない。写真に写った自分の姿を見てそのことに気づいた。はじめのうちはちょっと気になる程度だったが、やがて他人がそのことに気づいていると知ってから、途端に人と顔を合わせることができなくなってしまった。
 こうした「外斜視」の人と話したことがあるなら経験があると思うが、そういう人の視線は、外見的には捉えにくいものだ。本人はまっすぐ前を見ているつもりなのに、周囲からはヨソ見をしていると誤解される。普段の会話なら目をそらしたままでも成り立つが、授業では「ヨソ見をするな」と怒られてばかりいた。テスト中に、カンニングを疑われたこともある。体育の授業でも、ボールをパスしたのに無視した、と言いがかりをつけられることはたびたびだった。もっとも、パスされてもキャッチできたためしはほとんどないのだけれど。
 聖書の中に、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方が良い」というイエスの教えがある(マルコによる福音書9:47ほか)。後にこの箇所を読んだとき、大変なリアリティを感じたものだ。別に「神の国に入ろう」と考えていたわけではないが、目に由来する不快な出来事が起こるたびに、いっそのこと左目が眼球ごとなくなってしまえばどんなにか楽だろう、と考えたことがたびたびあったからだ。
 そんな生活によく我慢したものだ、と今では思う。でも、別にことさら我慢していたわけじゃない。騒ぎを大きくして、自分が斜視だということが、それまで以上にたくさんの人たちに知れ渡る方が嫌なだけだったのだ。
 他人と話したりすることが苦手だからと言って、独りでおとなしくしていることが得意だったかというと、そんなことは全然ない。いつも誰かと一緒にいたり話したりする生活を求めていたのは確かだ。
 こういう矛盾する欲求をある程度満たしてくれたのは、テレビだった。毎日五時間以上はテレビの前に座り込んでいた。アニメや実写の子ども向け番組はもちろん、バラエティだのドラマだのワイドショーだの、テレビの前にいられる限りは、内心「つまらん番組だ」と思っていても、観つづけていた。ニュースやドキュメンタリーなどの教養番組はあまり観なかった。親が「観てもいい」と勧めるものも、たとえそれが子ども向けのアニメであっても観なかった。低俗な番組であればあるほど熱中して観ていたように思う。そのくせ、父親が好んで観ていたプロレス番組は「野蛮だ」と批判していた。同級生たちがふざけてプロレス技を披露しに近寄ってくるのがイヤだった、という事情も、もちろんあった。
 今でも、当時の番組の主題歌が、あらかた記憶に残っている。というのは、単にテレビ作品をたくさん観たというだけでなく、カセットレコーダーをテレビに繋いで、あらゆる番組の主題歌を録音したテープを作り、それを繰り返し繰り返し聴き続けたからだ。『懐かしのアニメ主題歌特集』という特別番組が増えているが、おれはそこで紹介されるたいていの主題歌を今でも一緒に歌うことが出来る。それを歌う歌手が所属するレコード会社のことや、子ども向け番組に名前がクレジットされる音楽家のことまで、中学生くらいの時にはだいたい調べ上げていたのだった。
 近頃の子ども向け新場組には、大昔のアニメ番組をリメイクするものがやたらに増えたようだ。かつての子どもたち(チビっ子と呼ばれたものだ)が熱中した番組が、彼らが成長して大人になった今ではその子どもたち(こちらはキッズと呼ぶのが流行りのようだ)に愛されている、という、ちょっと以前には考えられなかったような時代になった。それに伴って、一緒にテレビを見ながらコミュニケーションを図る親子が増えているのだろう。スポンサーの玩具メイカーが発売するキャラクター商品も、子どもがターゲットなのか親がターゲットなのか曖昧な製品が増えたようだ。 
 それから、よく絵を描いた。中学では美術部に入り、高校や大学ではマンガ研究会に入り浸った。テレビに出てくるようなロボットだの宇宙戦艦だのを「どうすればリアルに表現できるか」を考えながら、かなりたくさん描いた。プラモデルも、よく作った。絵に描いたものを立体化しようと、あちこちのキットから別々に部品を集めて、自分の描いたイラストに近いものを作ろうと苦心した。
 高校に入ってからは、その頃すでにミリタリーマニアだった弟の影響を受けて、当時流行のきざしを見せていたエアガンにも親しむようになった。おれ自身はミリタリズムにはさっぱり興味を持てなかったのだけれど、「射的」というものが持つスポーツ性に、とても心をゆすぶられる思いを味わったのだった。良く狙って引き金を絞れば、弾は狙ったところに飛んでいく。要は、どんな条件であっても「良く狙う」ための集中力を保てるかどうかなのだ。球技や格闘技には、相手との間合い(距離)が直感的に測れなければ競技に参加することが難しいという側面がある。もちろん射的にも標的との距離を測らなければならない要素はあるのだが、ほとんどの場面では照準器が標的の中央を捉える瞬間に引き金を絞り切ることができるかどうか、というタイミングの問題が勝ち負けの分かれ道になる。スポーツらしいスポーツのほとんどから疎外感しか感じられないでいたおれには、「どのような局面でもタイミングを合わせるための精神力を維持できるかどうか」というエアガンのスポーツ性は、新鮮な緊張を味わう体験となった。「戦争を知らない世代の戦争ゴッコ」として社会問題視されたサバイバル ゲーム(エアガンを使って、敵・味方に分かれて撃ち合う競技)は、おれにとっては生まれて初めてその醍醐味を味わうことができた「格闘技」だったのだ。
 当時、同じような趣味を持つ子どもたちが急速に増えており、そういう友達とは良く一緒に遊んだものだった。そういう遊び方をする子どもたちが、今日で言う「おたく」の走りだったと思う(まだそういう言葉はなかったが)。
 当時の「おたく」たちがみんなそうだったように、おれもあの『スターウォーズ』という映画には、小学生ながら仰天させられたものだった。
 それまでの映像体験というのは、始めから「絵だ」とよく承知しているアニメーションか、いかにもプラモデル然としたミニチュアがピアノ線で飛び回るようなお粗末なものばかりだった。断っておくが、そういうものだって作るのには大した労力とカネがかかっている。でも、『スターウォーズ』を観てからは、何を観ても満足できなくなってしまった。実際には存在し得ないようなものが、圧倒的な存在感とスピード感で飛び回る。リアルな効果音と壮大な交響曲。テレビで放映される子ども番組が、いかにもチャチに見えた。
 絶対に映画を作るぞ、と思った。
 自分で構築した世界に周りの人をみんな引き込んでやる。それはとても素晴らしいことに感じられた。
 どうやったら、職業的に映画を作れる身分になれるのか。調べてみると、日本大学の芸術学部には映画学科がある。絶対そこに入る、と決意したのが小学六年生だった。
 だが実際には、高校に入学するのに試験があるということを中学二年になるまで気づかないほど、その目標は大いに漠然としたものだった。日本大学の芸術学部に入学するには、とても競争率が高い試験に通らなければならない。そこに入れずに何年も浪人する受験生がマンガに描かれるほどだった。それでも、「自分はそこに入る。そして映画監督になる」と、それが既に決定された運命であるかのように信じていた。
 内向的で消極的で、いつも横目で他人の顔色をうかがい、面倒くさがり屋でことなかれ主義でしかも臆病で、だけどプライドは高く被害者意識も強い。そういう高校生が出来あがっていた。
 まったく、どうしようないガキだね。
 それが、T協会に入る直前のおれだったんだ。


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